日曜日の「サンジャポ」で、放映されなかった場所での会話。

弾:
私が本当に主張したかったのは、ルービックキューブを解けることではなくて、ルービックキューブの解法を自分で見つけたことなんですよね。
スタジオのどなたか:
それがいやみだってんだよ!

ギークとスーツの日常会話が、ここに凝集されている。

ギークが「わかって欲しい」ことは、「理解に至る」過程とその苦労であることが多い。しかしスーツが求めてくるのは「理解」ではなく「結果」だ。彼らが欲しいのは群論ではなく、絵になりそうな「ルービックキューブを解いている私」だ。確かにバラエティ番組にMetamagical Themasは似合わない。

しかし、「まるでわからないけど、もしかしてすごい」ぐらいのことは言えたのではないか?

404 Blog Not Found:鼎の軽重
むしろマスメディアに関しては、「偏食」の度合いはずっと進んでいるように思える。「お茶の間の奥様方にはわからないでしょう」という台詞を、何度楽屋で聞かされた事か。そこには「わかりやすい番組を作る」ということを放棄し、「わかりやすい事しか取り上げない」という姿勢が残るばかりだ。

この事は実はスタジオだけではなく、お茶の間でも進行している。「わからない」ことばかり言う、「空気が読めない奴」をいじめる光景はスタジオよりもむしろ教室でよく見かけるはずだ。この構図は私が中坊の時から変わらない。「それがいやみだってんだよ」には懐かしささえ感じた。

それで私がいじめられるのは構わない。免疫ならすでに中坊の時には完成していた。私が耐えられなかったのは、そんな私に最初は手を差し伸べていた子たちにもいじめの矛先が向き、そのうちにそんな数少ない子たちも「空気を読んで」いるうちにいじめの輪に入って行ったことだ。

「わからなく」とも、「受け入れる」ことはできる。

告白しよう。私はつい最近までそんな簡単なことを知らなかった。私を受け入れようとしていた数少ない子たちに私が取って来た態度を振り返ると愕然とする。「このバカ」とばかりに手をはねのけていたのだ。その結果彼らがいじめの輪に入って行ったことを責める資格は私にはない。当然の報いだ。ギークにもスーツにも拒絶され、ギークになれないとしたらスーツになるしかないではないか。

Matzにっき(2005-05-16)
と述べておられるが、正直な話、私にはわからない。わかってあげられない。 小飼さんは「なんでこんなこと言わなきゃならない」んだろう。

「コードも書かない人に言われたくはない」というのは、中坊のころの私だ。受け入れてくれる人たちの手まではねのけていた、あの頃の私だ。

私の妻は、数学は三角法(三角関数の手前の)のあたりで挫折したそうだ。でも、まだ籍を入れてなかった頃,朝まで不完全性定理の話をしたら、ちゃんと聞いてくれた。多分理解はしていないだろう。でもそれで私には充分だった。

その不完全性定理を見つけたゲーデルの妻アデルは、「ゲーデル・不完全性定理―"理性の限界"の発見」によると6才年上のバツイチのダンサーだったそうだ。おそらく彼女はクルトを理解したことはなかっただろう。そんな彼女をクルトは一生愛し続けた。

このことは、アインシュタインを完璧に理解していたはずの妻ミレーバが、一般相対論の実証がエディントンの観測によってなされたその歳に離婚している事実と並べると、なお心を打たずにいられない。

理解よりも難しいのは、寛容なのだろうか。

だから、何も「やつら」の悪いところをまねする事はないじゃないか。無理解者を拒絶する姿が絵になるのは、せいぜい「15の夜」ぐらいまでと心得ようではないか。

The eternal mystery of the world is its comprehensibility.
--Albert Einstein

The eternal mystery of the human being is its capacity to embrace -- in spite of its incomprehensibility.

Dan the Embraced Man