漫画家の木下小福さんが、blogで夫婦別姓に関して触れている。
小福のへりくつでも、名前を変えたことに後悔はない。なぜなら、「面白い」んである。名前変わるのって、楽しいよ。今まで抱えていた罪深い部分とか恥ずかしいこととか足かせになっていたものとかが、全部老廃物になって排泄されるような気がするからね。
実は、私は識別子としての姓名の略号として名ではなく姓が使われている現状にいささか辟易している。
直美と私が入籍時にどちらの姓を取るか決めたが、ためらいながらも結局我々は私の姓である「小飼」姓を取った。理由は単純で、彼女の旧姓である「松本」はあまりにポピュラーだったからである。小飼は実に珍しい姓なので、保護に値すると考えたのだ。
あえて「小飼」のままにするという選択は苦いものであった。それは、どちらかといえば楽しからざる私の過去との決別のチャンスを逸する選択でもあったからだ。こういう、「新姓を名乗りたい」のではなく、「旧姓を捨てたい」という理由での改姓の例としては、世界的なプログラマーである萩野"いとぢゅん"純一郎氏の例がある。その彼にしてからが、itojunは別entityとして、存続を選んでいる。
そんな私も、「弾」という名には格別の思い入れがある。私にとって、この名は命よりも重いものだ。この世に生を受けたことに関しては未だ素直に喜べない私も、この名に関してだけは賛辞以外の感情が出てこない。
ちなみに私以上に著名な「小飼」としては、日本ソムリエ協会会長の小飼 一至(かずよし)がいる。実は彼、私の父の弟、すなわち叔父である。最後に逢ったのは実家全焼の時だからもう13年以上逢ってないが。その彼は、姓でなく名を変更している。
夫婦別姓以前の問題として、名の「事実上の不変」という問題もまたあることを忘れないようにしたい。実はこちらは姓以上に改めることが困難だ。その辺は妹尾河童がエッセイで書いていたのをおぼろげに記憶している。
かつて自分の名は、元服の際に自ら選び取るものだった--らしい。少なくとも武家はそうだった。その点において、現代の日本の姓名を巡る制度は退歩しているのではないか。
個を尊重するなら、まず名前からだと思うのだが。
もし、改姓が許されるのであれば、私は「五条」を選ぶと思う。
DAN kogai
P.S. ちなみに英語圏においては、姓はずっと名より「強い」。皮肉にもこれは名のバリエーションが少ないためだ。石を投げればMichaelやSteveにぶつかる現状において、よりユニークな姓に頼らざるを得ないという状況は、かなりカジュアルな場においても、参加者が一ダースほどもあれば自然発生する。親しく名で呼ぼうにも、"Which Joe?"を乱発していては会話にならない。
itojunはもうドメイン名もとっちゃってるし、そこらじゅうにアカウントあるし、
よく考えたらもう20年以上使ってるしで変えられないんです。
パソコン通信時代から使っていますから。