言語はそれ自身が文化であるだけではなく、文化の器(vehicle)でもある。
佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン:少子化対策イラネ人口と文化は相関しない。ただ10億単位を相手にした文化や1億を相手にした文化、1000万を相手にした文化、100万を相手にした文化、1万を相手にした文化、100人を相手にした文化が同時共在しているだけ。
一般論としては確かにそうだ。私自身100人未満の文化(マイナーなオープンソースプロジェクト)から10億人以上の文化(英語)まで、さまざまな文化に参加している。その数ある「文化」のうち、最大かつ最も根本的なのがなのが言語である。
ここでとりあげた本書では、言語が急速に減っている様を取り上げた上で、言語が生き残る条件を以下のようにまとめている。
- その言語が孤立していて、外界との接触がないこと
- アフリカやアマゾンの多くの部族言語がこれに当たる。
- 独立国の優勢言語となっていること
- ソ連が分裂した時には、だいたい言語ごとに別れたのだそうだ。中国やインドにもその可能性がある。もちろん日本語もこの範疇に入る。
ある言語が育まれるためには、充分な話し手の数もさることながら、それがある程度他の言語から隔離されていることも必要なようだ。たいていの言語がまずは方言として分裂し、時代を経るにつれ独立の言語となっていくという点からもこのことは裏付けられる。
そして、後者の条件はますます難しくなっている。最近ではある言語の方言化すら起りにくくなっている。優勢方言、すなわち標準語に方言が飲み込まれてしまうのだ。この点においてマスメディアの果たしてきた役割は実に大きい。
さらに最近では、国境すら充分な「隔離」とは言えなくなって来ている。例えばネットに載せにくい言語では、ラテン文字がその代わりに使われたりする。日本でも一時のJUNETがそうだったようだ(私はこの頃日本にいなかったので断言はできない)。幸い日本語は市場が大きかったこともあって、電網で扱えるようになったのも比較的早く、例えばUnicodeでも最初からサポートされているが、ウイグル文字などUnicodeのバージョンが上がってやっとサポートされるようになった文字もあれば、まだ載っていない文字も多々ある。これらの文字や言語が電網に載る機会はあるのだろうか?
本書はこの状況をこう結んでいる。
今の状況がそのまま変わらないとすれば、現在起きている中断期の最終段階では、最も大きな威信を持った、単一の世界言語が残っているだけの状態となってしまうだろう。そうなるには数百年かかるだろうが、それが我々の向かっている究極の状態なのだ。
実際「分野」(domain)によっては、たとえ優勢言語があってもこの「世界言語」、すなわち英語を使っている分野は少なくない。自然科学や技術など、「文化」というより「文明」にあたる領域では特に顕著だ。フラーレンも最初にそれを予言したのは日本人であったが、論文が英語ではなく日本語であったためノーベル賞を取り逃がしてしまっている。
ちなみにオランダ人は音楽的にも文化的にもすんごく扇子いいとオランダ人と付き合いのある人が言っていた。
もちろんオランダ人に文化がないわけではない。しかし「オランダ国外で通用する文化作品」となるとどうだろう。Paul Verhoevenはオランダ人だが、その映画のほとんどは国外で作成されており、特にRobocopのヒットの後は英語一本やりである。The Passionのように英語人口が「現地語」を採用する方が稀なのだ。
他の言語に吸収される形で言語が「死んで行く」にしても、まだ「親戚」の多いインド・ヨーロッパ語族はいい。ラテン語自身は「死語」でも、「娘言語」であるフランス語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、ルーマニア語などは健在である。しかし日本語はその「母」すら明らかではなく、「娘」ができるかどうかもわからない。これは1000万を超える人口を持つ言語としても稀だし、1億を超える人口を持つ言語としては唯一であろう。日本語は見た目より脆弱なのだ。
Dan the Nullingual

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