どうもさなえさんは誤解しているようだ。私は過疎地域を切り捨てよとは一言も言っていない。

とはいうものの、都市のサイズの最適化を進めよ、という主張だけではそう聞こえるのも確かだ。

あんなこと、こんなこと。どんなこと?:食糧自給はリスク管理の問題だ
自給自足などという絵に描いた餅はほしがっても無駄だし、求めてもいない。もう少し自給率を何とか上げることが、どうあっても必要なのだ。つまり、過疎地域は切り捨て、地方の核都市に人を集めて効率を上げるという弾さんの先の持論は、これは小泉自民党の方向でもあるのだが、おかしい。効率ばかりを追い求めていたら足下が崩れると言っているのだ。

というわけで、私が過疎地域をどう扱うべきと考えているかを述べる事にする。

田園を、米の生産地としてではなく、我々の庭として扱う事はできないだろうか?

農家にはその庭師になってもらうのである。実際、英語では1エーカー(大体0.5ha)よりも狭い田畑は、Farmと言わずGardenという。

そう考えれば、農家に支払う金額というのは、作物の商品価値ではなく、田園の環境価値になる。ここでは米は「副産物」だ。無理に作物だけで収支をプラスにする必要はないのだ。あくまで副産物なので、作物の価格を国際競争力のあるレベルに保つことも可能だろう。

今までの「過疎化を防ぐための補助金」がどう使われて来たのかを考えて欲しい。過剰スペックの農道。使われもしない農場空港。あぜ道のコンクリート化、工業団地の誘致....すべからくこれらは産業としての農村の効率を追求した結果である。その結果、田園としての価値は大いに下がってしまった。

これらの選択は、「都会ネズミ」が煽ってそうした結果ではなく、「田舎ネズミ」たちが議員を通して陳情した結果できあがったものだ。効率に取り憑かれているのは一体どちらなのだろうか?

都市には都市の、田園には田園の役割がそれぞれあるはずだ。都会の眩しさに目がくらみ、田園を都市化しようとしているのは当の田園の住民ではないか。そんな中途半端な「都会的田舎」など、誰が憧れるのだろう?

田園の機能は食物の供給だけではない。水利機能も浄化機能もちゃんとあるのである。これら、「かつてはビタ一文払われなかった」ものにこそ本当の田園の価値がある。だから大事なのは、都会の否定ではなく田園の抜本的再評価なのである。

この手法のよいところは、田畑だけではなく山林も同様に再評価できる点である。これからは高い米、高い木材の産出をもってよしとするのではなく、田畑そのもの、山林そのものを価値と見なすのである。

もちろんどう田畑や山林の「環境価値」を数値化するべきかという問題がある。これをきちんと定量化しない限り、経済の否定ではなく拡張によって野山を守るということは不可能だ。しかし経済の否定、あるいは歪曲化、いや狭小化という方法の無惨な失敗は、この国土のあちこちで醜い傷をさらしている。

一つだけ言える事は、今のやり方を続けるればますます多くの畦道がコンクリートで覆われ、ますます多くの山林が放置され、スギ花粉はますます遠くまで飛び散り、そしてますます多くの砂浜が波にさらわれるということだ。そんなことなら、まだ過疎化を無理矢理加速させた方がましではないのか?

Dan the Urban Rat Longing for the Garden