信じれば騙されるリスクがあるが、疑えば疑うという行為そのものがコストになる。

404 Blog Not Found:信じぬ者は救われる?
物事を簡単に信じるのは、すこぶる楽なことです。でも、それはあまりに非力な「信じる力」です。一旦、しっかりと疑って検証した末に得た「信じる力」は、なによりも力強い......多分。

それでは日本において「簡単に信じる」という行為がなぜ蔓延したのか?本書はそのヒントを与えてくれる。

題名だけ見ると本書は社会学の本であるが、実は心理学の本である。本書のキモは、タイトルにあるとおり、「安心」と「信頼」をまず峻別し、日本における「信頼」が実は「安心」であり、そしてアメリカ人の方が日本人よりも他人を「信頼」する傾向が強いことを実験を通して示している。

筆者は、「安心」と「信頼」を以下のように定義している。

安心
社会的不確実性が欠如した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること
信頼
社会的不確実性が存在した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること

例えばヤクザの親分が子分に対して期待通りの行動を取ることを期待するのは、「信頼」ではなく「安心」である。何故ならヤクザの世界においては、親分の命令を子分が破るという「社会的不確実性」は、制裁によって消し込まれているからだ。社会的不確実性を最小化することによって他人に期待通りの行動を期待するのは、「信頼」ではなく「安心」だと著者は喝破する。例えば融資する時に担保を求めるのは、信頼ベースの取引ではなく安心ベースの取引というわけだ。安心ベースの取引においては、社会的不確実性の最小化という取引リスクの受け手は行動する側、すなわち受諾者ということになる。

これに対し、信頼においては、社会的不確実性の消し込みは行われない。経済活動においては出資がこれに当たる。信頼関係において、リスクを取るのは信頼する側、すなわち供託者ということになる。

こうなると確かに安心と信頼は似てて非なる概念ということになる。こうして定義された信頼をもとに、日米の被験者がどれだけ他人と信頼関係を結ぶのかという実験を行ったところ、日本人の被験者の方が明らかに信頼関係を結ぶのに躊躇する割合が高く、そしてこの実験に「安心」の要素を加えて行うと他人と関係を結ぶ確率の増加が日本人の被験者の方が大きかったのだ。

確かにこの結果は、日米の金融資産の分散の違いを鮮やかに説明する。日本人は「安心」を求めて預金し、アメリカ人は信頼を元に出資するというわけだ。そして、その「安心」にゆらぎが生じた結果生まれたのが「失われた10年」ということになる。

おそらく安心社会が日本に戻ることはないのだろう。安心は実は非常に高くつく。筆者は安心をもたらす機構として、「針千本マシン」という比喩を使っている。期待を裏切った場合受託者の喉に針千本を押し込むのがこの機械の役割だが、ヤクザのオトシマエも融資の際の担保も針千本マシンとして機能している。針千本マシンは供託者に安心をもたらすが、受託者からは自由を奪う。そして自由の心理的効用が一定以上大きくなってしまうと、針千本マシンを自ら進んで装着しようという者は減ってしまう。

それに対する対案が、「信頼社会」だ。信頼社会の実現において筆者が提示する機構は「嘘発見機」。信頼においては供託側がどれほど受託側の期待を裏切らないかが関係を結ぶポイントとなるが、供託者の嘘を見破る機構があれば、供託側が受託側を「信頼」するコストが下がる。情報開示(disclosure)や説明責任(accountability)といったことは、この「嘘発見機」として機能する。

安心のコストに社会が食いつぶされるか、信頼のリスクに社会をさらすのかという選択が今問われているのかも知れない。

Dan the Unsafe but Trustworthy (?)