この一見非の打ち所がないはずの比較優位の原理に、しかし違和感を禁じ得ないのはなぜだろう。

金融日記:比較優位の原理 −Principle of comparative advantage -
これは250年以上前にリカードが発見した比較優位の原理であり、その後、様々な形に一般化され国際経済学の根幹となっている。

二つほど理由が思い当たる。

一つは、比較優位が成り立つことが明白な場合でもそれが常に利用できるとは限らないこと。

自分の足下で片付けなければならない仕事は、たとえコスト的に不利でも自分で片付けなければならない場合が多い。食事、着替え、トイレ、そしてセックス(Kazuさんゆえこれは外せない!)。身体に直結する仕事にこういった事例が多い。私は中国では10元もあれば散髪してくれることを知っているが、だからといって髪が伸びるたびにわざわざ中国に行ったりはしない。この点に関しては、八田さんの主張に対する考察として以前触れた事がある。ハッカーといえどゴミの日には自分でゴミを出すのだ。

しかしそれよりずっと重要なのは、比較優位の行使が、自己破壊性を内包していることである。

Kazuさん自身もこれに薄々気がついている。

要するに、多国籍企業は途上国を搾取しているのではなく、むしろ、経済格差を縮小させていることが簡単に分かるだろう。

こうして格差が縮小すればするほど、比較優位は失われる。その時優位者はその優位を守ろうするが、劣位者は優位者側に加わろうとする。ダンナはダンナで居続けたいのだが、メイドはメイドの地位に甘んじたくはないのである。

Kazuさんは、「それこそが世界に平等と平和をもたらすのだ」という捉え方をしているが、もしそうならなぜまだ世界均一最低賃金は達成されていないのだろう?いやむしろ格差は拡大しているように見えるのだろう?

それは、「劣位側」が優位者に追いつく事で比較優位を解消して平等を得るより、より劣位な者と比較優位関係を結ぶ方を選ぶことの方が多いからではないのか?社長は専務と、専務は部長と、部長は課長と、課長は係長と、そして係長は平社員と。ちょうどこのCMのように。さらに続ければ、その平社員は下請けとさらに比較優位関係を結んでいるやも知れないのだ。

なぜそうなってしまうかというと、それほど比較優位というのが「おいしい」からである。特に優位者側にとって。

先進国と途上国で工業製品と農産物を別々に作り、貿易により工業製品と農産物を交換した方が全体のパイが増えるのである。

しかしこの時に受け取るスライスは、先進国の方が大きいことが多い。そして途上国側は、自分の成果向上を喜ぶのもつかのま、この事実をいつか知り歯ぎしりする。

帝国主義の時代というのは、この比較優位の維持を、軍事力という圧力を使っていわば静的に維持してきた時代だと言える。先進国と途上国の関係だけではない。君と臣、侍と百姓、そして大人と子供。歩兵のことを英語で infantry と呼ぶが、これは子供、infant から来た言葉だ。かつて子供は弾よけであり(ダンじゃなくてタマね、もちろん:)、それが軍隊における比較優位だったのだ。

しかし、今やこの静的化圧力は消滅してしまった。比較優位における効用の非対称性に対する歯止めはもうないのだ。民族自決と自由主義が、外に内に戒めを解いてしまったのである。その結果、自由主義とは裏腹になりたい職業は偏在し、なりたくない職業は国に押し付けられることとなった。

かくして比較優位は常に自己破壊圧力を受けつつ、動的に比較劣位に至るところまで来ているように思われる。そこでは子は親にたかり、親は会社にたかり、そして会社は国にたかる。才能は呪いであり、無能こそが福音である。

あまりに皮相的な見方だろうか?

Dan the Comperatively Skeptical Man