実はもっと手っ取り早い方法がある。

内田樹の研究室: 生き延びる力
とりあえず、ひとつだけわかっていることがある。
それはどんな場合でも、とりわけ危機的状況であればあるほど、「他者からの支援」をとりつける能力の有無が生き延びる可能性に深く関与するということである。

言わずもがな、他者から奪うという一見正反対の方法である。

しかし実は両者は「他者から何かを得る」という点では一致している。

他者から奪うという手法は、他者からの支援を取り付けるという手法に比べ、難易度がずっと低い。

まず、なんといっても他者の同意を必要としない。対話という遅くて時間がかかる技能は不要だ。

次に、何かを得る対象としての他者の持つ「力」がずっと少なくてすむ。支援を行えるほどの「他者」は強者でなければならないが、奪う対象としての他者は弱者でも間に合う。要は腹に収まりさえすればいいのだ。

他者からの支援をとりつけるための最良のアプローチは何か?
たぶん、ほとんどのひとは驚かれるだろうけれど、それは「ディセンシー」である。

実のところ、他者からの支援を取り付ける能力に長けた人々は、他者から奪う能力にも長けている場合が多い。日が沈まなかった頃の大英帝国は、民主主義の手続きに則ってアヘン戦争を開始したではないか。

その香港が中国に「戻って」来たのは、皮肉にも中国の「奪う能力」が増したからだ。この力と鄧小平の前には、南極にほど近い小島に大しては decent に振る舞えた鉄の女の decency はまるで無力だった。

「強い個体」とは「礼儀正しい個体」である。
この理路は、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。

順番を違えては鳴らない。「礼儀正しい個体」は強くなければならないが、「強い個体」がすべからく「礼儀正しい個体」とは限らない。強さは礼儀正しさの必要条件ではあっても充分条件ではないのだ。

もう一つ見落としてはならないのは、礼儀正しさというのは、強く礼儀正しい個体に対してのみ強さを発揮する属性であることだ。アフリカヌスの甥に「ところでカルタゴを滅ぼさせた」大カトーでさえ、耳を持っていない腹に演説するのは難しいと告白しているではないか。

また、強く礼儀正しい個体も、ひとたび礼儀の力及ばずともなれば強く貪欲な個体に豹変することも忘れてはならない。あれほど強力だった「元老院最終勧告」をカエザルが破るのにやったのは、小川を一またぎしたことだけだ。

ところで、この国において礼儀正しさは万人に説かれるべきである。

と、ここで論調が百八十度変わるのは、実はこの国の人々のほとんどが無自覚の強者であるからだ。礼儀が何のためにあるかと言えば、強者どおしが共食いを防ぐ、まさにこの一点にある。

日本人がいかに強者であるかは、パスポートを取得して「弱者の国」に行けばすぐわかる。下流だの弱者だのと自分たちのことを呼ぶのは滑稽ではあるが、弱者のつもりで振る舞えば不要な殺傷は避けられない。

基本的な認識として私はこれらの日本を蝕む構造的な不調の原因は「平和ボケ」だと考えている。
戦後60年間の静穏な平和の中で日本人は「動物園の動物」のピットフォールにはまりこんだ。

「平和ボケ」は別に日本だけに見られる現象ではない。先進国では多かれ少なかれ見られる事だ。

「平和ボケ」は、個々が弱くなったことではない。実は強い個々がその強さを自覚しないことにあるのだ。

だから decency なのではないか。

Decency は「生き延びる力」ではない。

それは Greed という。

Decency が意味するもの、それは「生き延びさせる力」なのだ。

Dan the Decently Greedy