「人は見た目が9割」というのは、むしろ言の葉を尽くす人に強くのしかかる実感であろう。

Zopeジャンキー日記 :すべての言葉は一人歩きする
言葉を使うとき、誰でも「自分の意味で」使う。
そしてその言葉を受け取る人もまた、「自分の意味で」受け取る。
つまり、自分がある意味を込めて放った言葉は、多かれ少なかれ、別の意味で解釈されるのだ。
こうして、すべての言葉は一人歩きする。

古典的な例を挙げれば、「私の赤はあなたの赤だろうか?」ということだ。

ところが、「こういう色」と実例を示すことが出来れば、それを「赤」と呼ぼうが「朱」と呼ぼうが、どちらも「同じ色」を見ていることは明らかだ。この差がある故、「人は見た目が9割」とならざるを得ないわけだ。むしろ言葉で伝わる部分が1割もあるということの方が奇跡なのかもしれない。

その「残り9割」の具体的事例は本書にふんだんに出て来て、「ああ、確かに人は見た目が9割だよなあ」と納得も出来るのだけど、それでもすっきりしない部分がある。

ある小説とそれを映画化したものは、どちらの世界の方を「広く」感じるだろうか?私は前者である。それも圧倒的に。もし「見た目が9割」なら、「世界感」は小説<<漫画<<映画となるはずなのだが、体感はむしろその逆である。なぜだろう?

我々が物語を読む時、我々が「見ている」のは、物語そのものではなく、その物語に喚起される想像である。我々は物語を「読んでいる」のではなく、それを「台本」とした漫画や映画を「脳内制作」している。それが実際に漫画化されたものや映画化されたものより「広く」感じるということは、実は一番「広大」なのは「自分」ということになりはしないか?

他人は見た目が9割、しかし人は自分が9割、というわけである。

劇作家、マンガ原作家ということであれば、そこまでつっこんで欲しかったというのは、同じ新潮新書の「バカの壁」の読み過ぎだろうか。とはいえ、「他人の9割」に関してはこの薄さでよくもここまで盛り込めたとも思うし、「自分が9割」に関しては他に本も沢山あるのだから、本書はそのタイトルも含め充分その役割を果たしていると言える。見た目を気にする人より、むしろ言葉を大事にする人こそ一読すべき一冊である。

しかし、言葉を大切にする人であれば、さらに本書に「書いていない」ことまで思いを馳せるべきだ。そのために一番いいのは、読むに留まらず書くことなのだろうと思う。そうして一人歩きしていった言葉の中には、成長して戻って来てくれるものも中にはあるだろう。そうした言葉は時に百見の価値があるのではないか?

そんな「気が」する。

Dan the Man of Words