ジャーナリストには大きく分けて二種類存在する。
主体対象の「外」から取材する者と、「中」から取材する者と。
石井政之は明らかに後者である。
彼は、まず顔の赤あざを懸命に治療しようとし、しかし現代の医学では(少なくとも彼の症例に関しては)完治困難だと諭され、そうして自分の赤あざとの対峙を通して「ルックスが不自由だということは、社会にとってどういう意味があるのか」ということを自問し続け、その結果を本書の前身である「顔面漂流記」として著し、またNPO法人ユニークフェイスを立ち上げた。
しかし、「顔面漂流記」の段階では、彼はまだジャーナリストではなく「自叙伝作家」であった。面白くはあるが、まだ「自分語り」の域を出ておらず、数ある「ガン闘病記」とそれほど変わらない。しかし、その萌芽は出ていた。彼は自分の苦悩に、それを同様の悩みを持つ者と語る、すなわちジャーナリスティックな手法で対峙していたのだ。その結果は、次で取り上げる「肉体不平等」に結実する。
ここにおいて、かれは「自分語り」を抜け、自分の私憤を公憤と昇華させ、ジャーナリストとなることに成功する。同書においては、三島由紀夫こそ「持たざるもの」であり、「五体不満足」の乙武洋匡が「持てるもの」であるという、意外にして説得力のある論を展開する。彼がどのようにしてその結論を導き出したかは是非本書を手に取って確認していただきたいが、そこにおける彼はもう「痣に呻吟する一青年」ではなく、「『見た目』の社会的影響を追い続ける一ジャーナリスト」である。
彼の先輩ジャーナリストである日垣隆は、ジャーナリストとしての姿勢を問われて、「公憤を私憤に変えることだ」という名言を生んだが、石井のアプローチは一見この逆だ。なぜ日垣氏が公憤を私憤に変える必要があるかというと、「他人事」を「自分事」にしてはじめて血肉の通った文章を編み出せるのだということだと私は勝手に解釈しているが、彼の強みは、そのプロセスを省略し、はじめから「自分事モード」になっていたということである。
しかし、「はじめから中にいる」ことは、その一方で「中に閉じ込められる」というリスクも背負っている。「客観幻想」に捕われがちなジャーナリズムの世界では、「中の人」、すなわち「当事者」でありつづけることは減点の対象ともなりうる。だからこのタイプのジャーナリストには、「私憤を公憤に変える」ことも欠かせない。自分の対極にいる「外の人」も取材して、はじめて普遍性を獲得するに至る。
彼が「肉体不平等」における「分析対象」だった中村うさぎと共著で、「自分の顔が許せない」を著すに至るのは、まさにこの過程の一環でもある。紅いアザを「人間の証だ」と言う石井と、「ふつうの顔と体が」許せないあまりマメな肉体改造にいそしむ中村は、一見対極にある。しかし彼らは対談を通して、実はどちらも同等の悩みに違う手法で対峙する、「肉体コンプレックス組の同級生」であることを見いだす。
そう、彼は中から外へ取材し、そして取材の対象を「中」にしてまた「外」へ取材するという手法を確立したのである。実はこれはジャーナリストの手法としては王道なのだが、王道だけあって誰でも歩める道ではない。それだけに実に将来が楽しみで、その意味において私はばちあたりなことに天が彼の顔に赤あざをmarkしたことに感謝している。
その彼に次に取り上げてほしいのは、なんといってもblogosphereである。blogosphereにおいては、自分の外見と自分の印象を容易に分離することが出来る。私はそうしていないが、過半のblogが実名を出さずになされていることを見てもわかるように、日本においては私は少数派である。こういう世界における「外観」とはなんなのだろうか?もしかしてこれは自分の見た目に対して「諦めて受け入れる」「諦めずに整形なので抵抗する」に代わる第三の方法なのではないだろうか?取材する価値は充分にあると思われるがいかがだろう?
彼は実はすでに個人blogもNPO法人blogも持っているが、どちらもTBとcommentを切っていて、その意味ではまだblogは彼の「外」にある。まずはこれを「開いて」みることから始めてみることを提案しつつ石井評を締めくくる事にする。
Dan the Unique Being
あ、ほんとだ、ありがとうございます。
ほんと、私のような誤字脱字野郎には読者の校正が書かせない、いや欠かせませんね。
これからもよろしくおねがいします。
Dan the Typo Generator