一つだけ確かな事がある。

「親の資格無し」という言葉を正面から受け止められないうちは親になる資格はないという事。

404 Blog Not Found:カエルの子を変えるには-ぬっこさんのコメント
他人様の教育方針に「親の資格無し」とまでいう資格はどうやったら得られるものなのかしら、と思いました。

なぜならば、この台詞をいつか自分の子供に言われるかも知れないからだ。

自分の子供にこれを言われることに比べたら、他人にそう言われることなどそよ風のようなものである。

この国においては、親になるのに免許はいらない。裏を返せば、親としての行動の正しさを国も自治体も担保してくれはしない。

そうだったらどんなによかったかと何度思った事か。

正解の存在する問題に受験生として慣れたこの国の人々であれば、それがどんなに不安かというのは予想していただけると思う。

私は未だに不安である。

しかしこの不安に耐えるということは、親の資格の一部ではあることを私は知っている。

子が被害者となる不安。

子が加害者となる不安。

これらの不安から逃げるということは、親の資格を損ねることだろう。

それがいやなら、子を持たぬという選択をすればいい。実際そうしている人々は多く、そして増えてさえいる。

子はいつか親を離れ、誰も正解を知らない世界へと旅立って行く。親として最後に教えておかなければならないことは、誰も採点してくれない世界がそこにあるということだ。

それに比べたら、今回の入学拒否の問題はあまりに単純なのだ。今回の問題には、「不正解」がある。正解は複数ありうるが少なくとも中学校側の取った行動がそのいづれにも当らないことは確かだ。いや、それどころか「彼に罪はない」と、校長自らが正当性を放棄してしまった。

このことが「不正解」であることに対して、感慨は人それぞれだろう。しかし「不正解」という事実には代わらない。少なくとも我々の社会においては。

だから、今回の「問題」は「親資格試験」においてはずいぶんと難易度の低い問題なのだ。

その不正解を正解というのだから、どう見ても失格なのではないか。「不正解」な解答に共感することと、その解答を支持することとは意味は違う。「麻原の息子と同じ学校に我が子を通わせたくない」という気持ちを持つところまでは「親の権利」というより「思想の自由」の範疇だ。しかし実際に「我が子と同じ学校に彼を通わせるな」というのはその権利を逸脱しているのだ。

生物学的のみの親ならとにかく、社会学的な親には、子に建前の建て方を教えるという課題も課せられている。今回が本音を優先すべきケースだというのであれば、私にはこれ以上言うことはない。

親であるということは、なんと難儀な事なのだろう。

それでも一つ嬉しいことがある。子の存在は親を育てるのである。変な話しであるが、親資格試験においては、試験中に勉強しても構わないし、また何度でも受験できるのである。むしろ前もって受験勉強をしてもほとんど役に立たない。その意味では泥縄で構わないし、案ずるより産むが易しでもある。

しかし、さぼることもまた許されない。子供から卒業するまでは。

それを楽しめるか否かも、親の資格かも知れない。

Dan the Perpetual Apprentice of Parenthood