なぜ私はこう同感な意見に限ってケチをつけざるを得ないのだろうか。
jkondoの日記 - レッテル相手のことを人間としてよく知りもしない人が、相手の組織とか経歴だけで人を判断したりしているのは良くないと思った。それは差別っていうんだと思う。
しかし、レッテル(英語ではLabel)だけで判断しなければならない状況の多い事。
商品先物の営業電話を断るのに「まず個人としてその人がどういう人かとか、何書いているのとか」を吟味しているひまなどない。コンビニの店員に「弁当暖めて」と頼んだ時に、「そのコンビニの弁当にこの人は毒を入れるような人なのだろうか」と考えても、その間に「チン」は完了する。
いや、それらを気にする人たちはいる。しかしこういった「ラベル」だけの「割り切った浅い付き合い」の出来ぬ人に現代はキツい。それが苦で自殺してしまう人だっている。確か漫画家の山田花子がそうだった(芸人の方じゃないよ。同じ山田花子でも両極端かも)。 しかも浅い付き合いの回数は、日本だけではなく世界中で、浅い付き合いの機会はどんどん増えている。
かつては、我々はそれこそ「顔見知り」の中だけで人生を完結できた。顔見知りに産湯につけてもらい、顔見知りにモノを売り、顔見知りからモノを買い、そして顔見知りに墓に入れてもらう。「赤の他人」が人生に入り込む余地はほとんどなかった。
今ではどうだ?朝起きて他人の書いた記事を読み、他人に囲まれて通勤し、他人の苦情電話を受け付け、他人のところに営業に行き、他人の売るスーパーで夕食のおかずを買い、他人の出ているTVを見るか他人の書いたスレやentriesを見るかしてから床に付く。
それによって、我々は顔見知りが知らない事を知り、顔見知りが買いたくないものを売り顔見知りが売っていないものを買い、顔見知り相手だけでは手に入らない世界を手に入れた。
あえて「相手の組織とか経歴だけで人を判断」することを受け入れることで、我々の世界は大きくなったのだとすらいえる。
まず個人としてその人がどういう人かとか、何書いているのとか、見なきゃだめだよね。順番として。
ところが、まずその人を「個人」として見るか「他人」と見るかという判断を、今の我々は常に強いられる。そして個人と見るか他人と見るかの境界が、皮肉にも「相手の組織とか経歴」だったりするわけだ。
しかし、ネットの登場によって、今度はいきなり「他人」の「むきだしの個性」に遭遇する事態がまたもや増えたのである。折角「浅い付き合い」というものを思いのほか長い時間かけて学んで来たというのにこれでは、ストレスがたまるのも無理はないだろう。
どちらがいいかを問うつもりはない。ただ、「個人としてその人がどういう人かとか、何書いているのとか」という言説を「割り引かずに」受け取ったら、心も体も持たないということは指摘しておきたい。
私自身、それで心と体を酷使しがちなので。
Dan the Stranger to (Most of) You
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