寄生獣のクリップが絶妙だったのでTB。
(ネタバレ注意)
今あげた4名の方々なんかはきっと社会がどうなっても、どんな状況に突っ込まれてもちゃんと自分一人は守りきれるし、身内のこともフォローできるだけの能力があるんでしょう。というか確実にあるな、その能力は。だからつい他人にもそういう能力があると思ってしまうし、彼らが出来ることをなぜ他の人間はしないのか?するべきじゃないのか?ヤレよテメーラ!って言いたくなるんだろうな。
個人個人であれば、そういう能力というの「ない」かも知れない。しかし社会全体としてはどうか。
個としての人はパラサイトの前に無力だが、パラサイトは「社会の人々」の前に無力だったではないか。「田村玲子」が指摘しているとおり。
「彼女」(ここでも括弧付けなのは、パラサイトに性別があるかどうか不明だから)も言っていたではないか。「だからあまりいじめるな」と。
結局パラサイトたちは彼らを匿っていた広川ごと密かに駆逐され、「一人」残った「後藤」も新一とミギー、そして社会の生み出した毒(比喩ではなく本当の)の前に倒れる。そして社会は、今までパラサイトなどいなかったがごとき日常へと戻って行く。
平凡の強さと非凡の弱さを描かせたら、今のところ岩明均の右に出る者はいなさそうだ。岩明均の巧いのは、それを描くのに、平凡な個人に本人の意図しない非凡な力を与えられた者の苦悩と目を通してそれを描くところにある。彼は平凡だったゆえ、非凡を許せず、それでいて、非凡になった故平凡な方法で非凡と対峙出来なくなる。
「寄生獣」だけではなく、「七夕の国」もこのテーマに属する。しかし、その結末は大いに異なる。寄生獣たちは滅びたが、丸神の里は生き残った。
それはなぜだったのだろうか。寄生獣たちが自制を学びきれず、丸神の里の人々がそれを知っていたからなのだろうか。
それにしても、「七夕の国」の主人公、南丸クンの一言は、傾聴に値する。
みんな....この世の広さをわかってない!
岩明均は、「手がとどく」力をあれだけ描写しておきながら、あえて「窓がひらく」というのがどういうことなのかを描いていていない。blogosphereというのは「窓がひらいた者達」の集まりなのかも知れないと言ったら「カササギ」たちに嗤われるだろうか。
そこに吸い込まれそうになった時には、南丸クンの言葉を思い出して欲しい。
世界は、広いのだ。
丸神の里の一つや二つあっても気にならない程度には。
Dan the Cursed by Gift, Gifted by Curse
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