これを見て、この三部作を改めて紹介せずにはいられない。

jkondoの日記 - 興味を持ったことだけでも相手に伝える
褒めるとか立派な意見を言う、とかまで行かなくても、「面白かった」とか、さらに言えば「読んだ」とかだけでも相手に伝えることに価値があるよなあ。

うち「高校生のための文章読本」は以前のentryで紹介したことがあった。が、これは繰り返して紹介するだけの価値がある一節なので再び引用させていただく。

「高校生のための文章読本」pp.208
  1. 良い文章とは
    1. 自分にしか書けないことを
    2. だれが読んでもわかるように書いた文章

単純な「禿同」とか「氏ね」という反応は、確かに2.は満たしてはいる。しかし1.を満たしていないため、反応の元となった表現を行った「話し手」の方にはある程度の価値を持ち得ても、その反応を行った「返し手」の方にはあまり価値が生じないのだ。

もちろん、これらの単純な反応に価値を持たせる事も可能である。例えばjkondo(敬称略)や私にはそれが可能だ。なぜならすでに「誰か」がある程度確立されているので、主語を省略しても「jkondoが」「弾が」という主語が自動的に補われるからだ。しかし一般論としてそこまで期待するのは難しい。

だから、折角容量無制限の言語空間なのだから、Attention以上のなにか--Critic--批評も返した方がいいと私は思うのである。AttentionだけではDonationにはなりえてもCurrencyとはなりえないのだから。

「高校生のための批判入門」pp.21
こうした違和感の正体を追求していくと、必然的にそれは「あり方」をめぐる鋭い批評となっていくのである。わたしたちいはもっともっと「違い」にこだわり、敏感になってよいのだ。批評にめざめることは、他とは違う「私の流儀」が確立されることである。

この違いに目覚めるということが、「発言者」と「群衆」を分つ分水嶺なのではないだろうか。歓声や罵声は受けた方にとっては価値があっても、それを発したものには一過性の価値しか与えない。

jkondoの日記 - 興味を持ったことだけでも相手に伝える
通貨を支払えば相手はattention裕福になる。通貨と引き換えに支払い者が得る物は何だろうか。情報?信頼?好感?またしても興味?

あるいはカタルシスか。得られぬものであればわかる。Reactionだ。あえてそれを受け取りたくないがゆえにAttentionのみを「投げ銭」するというのもありなのだろう。

私がこうしてAttentionのみを支払いつづける者達に語りかけるのは、余計なおせっかいといえばそれまでではある。それを承知でおせっかいを焼き続ける理由が以下だ。

「高校生のための小説案内」pp.225
この言葉の時代を生きのびていくために私たちは、屈強な検証者として、柔軟な創造者として、自身のうちの<小説>を錬磨していかなければなるまい。そうして確立される記述の分身、記述の天体が、今日の私たちにとって、可能な「自己」の顔なのである。

同じおせっかいでも、私が焼くおせっかいはなかなかこれほどカリカリモフモフには焼き上がらないのだけど。

それでも、どんな稚拙でもいいから、私は味をうんぬんする人より実際に「焼くひと」にAttensionを払っている。なにも粉から練る必要はないのだ。そこに自分の手が加わる余地さえあれば。実際「高校生のための三部作」だって、過半は引用である。それでも同三部作が時代を超えた傑作になっている理由は、その取捨選択、そこに加える一言、こうした部分の全てが「小牧工業高校カルテット」の個性だからだ。

実はこの本の作り、実にブログ的なのだ。玉石混交の言論世界から玉をとりだし、それを指輪にいれてみる。そこには原石だったときとは違った魅力が生じる。玉の持主にきちんと筋をとおして「仕入れさえ」すれば、なんら後ろ暗いところはない。

それにつけても、この三部作の「くさらなさ加減」はすごい。未だに、いや今だからこそ価値がある。メロンパンはこうはいくまい。それが表現することの凄さであり怖さなのだろう。

日本語で文章を綴る全てのブロガーに。

Dan the Expressionist

追記(2006.03.20 17:45):id:proofreading様、ありがとうございました。

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