だと、Larryとの対談で改めて確認した。

浮ついた「ギーク」への説教(※老害注意) @ ZEROBASE BLOG
オールドタイプ的な老害トークをぶってみます。「プログラマーなら梅田本よりK&R読め」と(あぁ老害)。

こうしてK&Rを修めて、SICPを修めてとやっていき、ついにはEuclidの原論にたどり着き....とひたすら足下を固めれば、確かに一人前のプログラマーにはなれる。

が、LarryやAudreyになるのは無理だ。

説教に従うだけでは、家老にはなれても大名にはなれない。

もちろん「大名クラス」とて、これらの古典には目を通す。しかしそれは自らの渇きに応じて自然と手を伸ばした結果であって、家老に言われて仕方なく、という感じではない。あくまで自然体なのだ。

多分この感覚が、ギークとそうでないものを分けるのだろう。

嫌いなものを体にいいから仕方なく食べるという感覚で古典に手を出す人は、どんなに頑張ってもせいぜい書いてあることしか読めない。しかし、体の欲するままに古典を読まずにいられない人は、その結果そこに書かれていない行間までも読み取る事ができる。どちらがきちんと読んだ事になるかは、言うまでもないだろう。

だから、浮ついていていいのである。

浮ついてな行ければ、この「渇き」がわからないのだから。

薫日記: 中年に古典
中年になったからだろうか、この頃、ようやく、科学の古典の「味」が少しわかるようになってきた。

人は年齢や健康状態によって、食べ物の好みが変わるように、ギークの好みも状況によって変わる。無理に古典を読む必要はない。時期がくれば体がちゃんと教えてくれる。もしあなたの体がそうなっていないのであれば、何も彼らと競うために無理をする必要はない。どんなに頑張ったって、彼らには敵わないのだから。

もっとも、この事は、

浮ついた「ギーク」への説教(※老害注意) @ ZEROBASE BLOG
あくまで半分冗談の老害トークなので、あまり本気で反論されるとビビります。

という具合に、先刻承知だとも思われるのだけど。

そうそう。あえて年寄りの方を持つと、年寄りが若者に説教するのは、まさにその年寄りが若い頃にバカやってイタい目にあったからということもあるのですよ。老婆心という奴ですね。

だけれども、イタい目にあっても致命的にならないのは、若者の特権でもあるのだから、大いに浮ついて時には大いにドツボにはまって欲しい。

それがこわかったら、そもそも古典に手を出す以前にそのなりわいに手を出すべきでないのかも知れない。

Dan the Perpetually Immature