この議論を進めるためには、まず岡田氏が何を「オタク」と呼んでいるかを知らなければならない。
岡田斗司夫のプチクリ日記: オタク・イズ・デッドそう、オタクとはすでに滅びてしまった民族なのです。
そのヒントとなるのが、以下。
オタクの目 - オタキングの涙・・・・ところが、第3世代という最近の若いオタクは、岡田氏が教授を名乗って大阪芸大で教えているクリエーター志望者(大半がアニメ・マンガ分野の志望者)でさえ「ドラゴンボール」の「ド」の字も知らず、自分の興味がある作品に関しては深く追求するものの、そこから少しでも外れたものに関しては一切見向きもしない、いわば一点主義的な人がほとんどという。わたしも含め、古い世代のオタクが、例えばSFに興味があればそれに関する著作や映像作品のありとあらゆるものを見てやろうというのが当たり前だったのと比べると、まったく対照的なのが新世代のオタクというのである。
というのを見ると、どうも岡田氏が「オタク」と呼んでいるのは、もしかしてGeekたちが「ハッカー」と呼んでいるものなのではないかという可能性に思い至る。
私は、オタクというものを、「あるものを、世間体を気にせず愛する人々」という風にとらえていた。「おたく」という言葉の本来の意味は、"Your Kind"。「おたく」はオタク達の一人称ではなく、オタク達から見た「世間」を二人称として指し示すものだった。しかし日本語においては、「自分」も「われ」も二人称として使える事を見てもわかるように、代名詞の転用というのは実にありふれたできごとである。「オタク」という言葉もまたその道を歩む。
自我の成立に他者が必要なのが自明なのと同じぐらい、「オタク」の世界では「世間」が重要な役割を果たしていた。オタクという自我が成立するためには、「非オタク」の存在が必要なのだが、かつては「世間」と同義だった「非オタク」が、「オタク界」の拡張とともに、「他のことに興味を示す者」、すなわち「他のオタク」も指すようになり、かつてはオタクを「仲間」として扱っていた別のオタクが、まるで「世間」を扱うがごとくお互いを扱うようになり、ついには自分の世界に「ひきこもる」ようになり....というのが「オタク・イズ・デッド」で岡田氏が主張するところではないかと勝手に解釈した。Webに上がったレポートを見る限りでは、そう受け取れる。
ある業界の拡大の結果、業界人の視野が相対的に狭くなるという現象は、どんな世界にも起こって来た現象である。そしてそれを見た旧世代が、「業界は死んだ!」というのも。
私に言わせれば、その業界の功労者が「業界は死んだ!」といってからが、その業界の始まりなのである。なぜなら、それは一人では業界を網羅しきれないほど業界が大きくなったということなのだから。今たとえばニュートンをつれて来て、いきなり「超ひも〜」と言って彼がついてこれるだろうか?ベルにケータイを見せて、それがどんな原理で動いているか彼がたちどころに理解できるだろうか?
個人の能力に限界がある以上、業界全体を個人で追いきれなく日はいつか必ず来るのである。
そうなった時に、「ひきこもり」は必ず現れる。とりあえず自分の追える範囲だけを追い、その先を見ようとしないものが、必ず現れる。いや、そうなるものが大勢を占めることこそ当然である。
しかしそれだけを見て、「業界・イズ・デッド」というのが早計であることも歴史は証明してきた。
ロックだってすでに何回死んで来た事か。
業界がインフレーションを起こして、その結果「ひきこもり」が増えたとしても、必ずその中から「ハッカー」が登場するのである。彼らにとって、古典は最新の作品と同じぐらい時に新鮮で、まるで最新の作品をむさぼるように古典をあさる。我が電脳界でもそうである。Web 2.0に対するBinary 2.0なんてまさにそうだ。
そんな元気な彼らを見て、「業界・イズ・デッド」なんてとても言えない。
「オタク・イズ・デッド」というのは、単に「アイ・アム・デッド」の勘違いなのではないか?確かに自分の死と世界の死というのは、自分には区別がつかないものなのだから。
Dan the (Hacker|Otaku)
追記:はてブを見ているうちに思い出した。この最後の文の光景、↑の「七胴落とし」で巡り会えます。古い本なのでちょっと入手しにくいかも知れないけど、お薦め。
「オタク」という言葉を使ったわけではないでしょうから、
もっと自然に考えていいのではないでしょうか。
例えば、軽く殴られたときに、
オタクじゃないひとが相手だと「いてっ」と言ってしまうけど、
オタク同士だと「グハッ」とか言ってしまう。
この感覚は近くないですか。
あと、ニュートンとベルの喩は抜きにして、
非常に鋭い指摘だと思います。