だからこそ、特別公務員や政治家は庶民であってはならない。
イザ!:各界から福井やめろコール…村上“汚染”財界人脈-事件ですニュース通貨の番人として、日本経済をコントロールする立場の福井氏が総裁就任後も出資を引き揚げない倫理の欠如は、その資質を問われても仕方ない。H-Yamaguchi.net: いったいどうすりゃいいのさ
もしそうなら、すべての特別職公務員や政治家は一切の投資活動から手を引いてもらいたいと。首相や大臣だけでなく、知事や市長、国会や地方議会の議員の全員に、預貯金と国債、地方債以外の資産運用を禁止してもらいたい。
李下に冠を整させないようにする唯一の方法は、。李下に立つものたちを、すももでおなかいっぱいにしておくほかないではないか。具体的には、特別職公務員や公選された者は、もう報酬が必要ないほど資産があるものか、最初だけ「もう李を振り返らずにも済む」だけの資産を与えておくということになる。過去にも、私はこう述べた。
その意味において、議員報酬は不当に低く、そして資産公開などのしばりは不当に重い。私なら、むしろ当選した議員に最初に4億円渡し、そして議員報酬を一切なくす。年俸1億円を4回ではなく、4億円。全額前渡しというのが肝要だ。Espresso Diary@信州松本:日本人は、小さな違いに大騒ぎしすぎでは?
なんなら十億円でもかまわない。実は、十億円でも安上がりなのだ。ある試算によると(ソースを思い出せない。たれ込み希望)、議員一人が自分の選挙区にもたらす利権は、平均40億円に上るそうだ。これが0になるとしたら、十億円でも4倍のコストパフォーマンスだ。議席の削減まで視野に入れれば、コストパフォーマンスはさらに上がる。
新しい財務長官は、ヘンリー・ポールソン。彼がゴールドマン・サックスのCEOとして得ている年収は3,100万ドルといいますから、日本円で約34億円です。ホワイトハウスの閣僚の年収は2,200万円ぐらいですから、いっきに100分の1以下に減っちゃうんですね。アメリカのCEOの報酬が高すぎるのか、ホワイトハウスの閣僚の方が安すぎるのか分からないですけど、日本では考えられない話です。
むしろこれくらいが妥当ではないか。ルービンはたしかもっとすごかったはず。
ただ、一応形だけでも年俸を出すところが合州国も不徹底だ。Jobsみたいに1ドルにすればいいのに。
私が今回の福井総裁にorzとなったのは、額が多かったからではない。額が少なかったからだ。「庶民からかけ離れた?」日本では庶民がそれくらいの預貯金を持っていることになっている。定年退職まで同じ会社に努めて退職金が1000万を切るというのだってむしろ稀だろう。
こんな「はした金」に足をすくわれるとは、李下に冠どころか李下でどじょうすくいをしているようなぶざまさだ。そんなぶざまさが幅をきかせるほど、日本の「選良たち」というのは庶民的である。そうでないと、昨今はとにかく、かつては「選良」になれなかったのだから。
404 Blog Not Found:民、民ならずとも、臣、臣たれ日本にエリート不在が叫ばれ、そして嘆かれて久しい。しかし我々がエリートたちにどういう仕打ちをしてきたかを考えれば、当然の結末ではないだろうか?
そんな「李下に冠」だの「瓜田に履」だのと小難しいことを考える必要はない。要は原チャリしか運転したことがない奴に40トントレーラー運転をあなたは任せたいですか、ということなのだ。大きな乗り物は、小さな乗り物とはまるで別の運転テクニックを必要とする。トラックであれば、交差点を曲がるのにまず逆にステアリングを切らないと曲がりきらない。ましてや、日銀総裁というのは、トラックどころかタンカーのパイロット(水先案内人;こちらが本来の意味)にも相当する職だ。これほど庶民に不向きな職は、あとは総理大臣ぐらいだろう。
選良が庶民であってはならないのは、誰よりも庶民のためなのだ。ところが、民主主義というのはその庶民に選良を選ばせる。そして自分に理解不能な者に信頼を寄せるということを、庶民はあまり得意としていない。勢い「庶民的」な者を選んでしまうわけだ。
今のところ、日銀総裁相当の職を選挙で選出している国がないのも、その事の反映かも知れない。庶民が務めるにはあまりに危険な職なのだから。
それにしても、「庶民の視点」から政治が論じられるたびに、私は塩野七生の以下の台詞を思い出して嘆息せざるを得ないのだ。
「ローマ人の物語XII」pp.33
カラカラによって、ローマ市民権は長く維持してきたその魅力を失ったのである。魅力を感じなくなれば、市民権に付随する義務感も責任感も感じなくなる。そしてそれは、多民族多文化多宗教の帝国ローマが立っていた、基盤に亀裂を生じさせる事につながった。誰でも持っているということは、誰も持っていないと同じことなのだ。この現象を現代風に言い換えれば、ブランドは死んだ、ということでもあった。
現代、民主主義を標榜する国では資本主義もセットになっている理由は、「誰もが持つこと」により「誰も持たなく」なった「選良」というブランドに代わるブランドを、資本の力で再構築するためなのかも知れない。それすらだめだとなったらもはやブランドはありえず、そしてブランドなしで人が人を動かすすべを、我々はまだ知らないのだ。
Dan the Layman
りにほかならないと思う。