日本語は主語が省ける故か、一般論に還元すべきでない問題が一般論化しやすいように感じる。

平たく言うと、「あなたの問題」が「みんなの問題」になりやすいということだ。しかし、還元せず「そのまま」扱うべき問題というのは確かにあり、そしてこの問題はその最もたるものの一つだ。

煩悩是道場 - レイプされて出来た子供は堕胎して良いか
良いとか悪いとか当事者以外が決められる問題じゃないだろう、と思う。

というのであれば、

その子の命を奪う権利はおまえらにはない。

と言う権利はあなたにはないはずなのだ。あなた自身が当事者でない限り。

とはいえ、一般論なしで、他に依るところなく、「当事者だけで解決せよ」と突き放すには、あまりに一般的な問題でもある。なにしろこの国の堕胎件数は年間30万件以上。これを「死亡」に数えると、それ以外の「死亡」が年間100万件ほどなので、4人に1人は堕胎されて死んでいることになる。その数、自殺の10倍である。

それでも、一般論的に問題を「解く」のだとしたら、その方法は

finalventの日記 - 大人はこうした問題に軽々しく言及しないものだが
「大切じゃないと思う奴は、まずその子を産め。オレが立派な人間に育てて証明してみせてやる」とね。
 冗談じゃなくて、マザー・テレサはそういうふうに言ったのだ。

という方法しかなく、そしてそれがあなたに出来ないのであればあなたは口をつぐむべきだ、と私は考えている。

だいたい「なぜ人を殺してはならないか」という設問自身、実は「過剰一般化」された問題ではないか。この質問の答えは、主語と述語が変われば答えが変わってしまう以上普遍性を持ち得ない。

まさにこのタイトルがついた本を表した小浜氏も、この設問に関してはこう結んでいる。

pp.185
こうして、「人を殺してはならない」という倫理は、倫理それ自体として絶対の価値を持つと考えるのではなく、また、個人の内部に自らそう命じる絶対の根拠があると考えるのでもなく、ただ、共同社会の成員が相互に共存を計るためにこそ必要などだという、平凡な結論に到達する。私はそれで十分だと考える。

本書はこれを含めて、

  1. 人は何のために生きるのか
  2. 自殺は許されない行為か
  3. 「私」とは何か、「自分」とは何か
  4. 人を愛すとはどういうことか
  5. 不倫は許されない行為か
  6. 「売春」「買春」は悪か
  7. 他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか
  8. なぜ人を殺してはいけないのか
  9. 死刑は廃止すべきか
  10. 戦争責任をどう負うべきか

という、苦い質問に対する著者の考えが述べられている。そう、「考え」である。「答え」ではない。本書にはいくつかの事実誤認もあるし、著者の考えに対して同意しがたいものもいくつもあるのだけれども、著者の論述の進め方を見るだけでも一読の価値がある。その道筋はこうだ。

  1. なぜ自分がその問いにつかまってしまったのか、その動機を考える。
  2. 簡単な解答はありえないと覚悟する。
  3. 問いかたそのものにまずい点はないかどうかを検討し、まずければ、もっとよい問いかたを編み出す工夫をする。

本題に戻る。それで、中絶の問題に関して、中絶される者とする者が直接当事者であることは言うまでもないことだが、それであればそのどちらでもない我々は「赤の他人」かというと、実はそうでもない。クリニックから法にいたるまで、当事者の決断に至る「環境」を決めているのは我々だからだ。「我々」がそう望めば、中絶を今よりずっと行いにくくすることも出来てしまうし、その逆も可能なのだから。

私としては、「中絶するか否か」という選択を迫られる状況をなるべく少なくすることが社会の役割と考える。詳しいことは以前書いた"404 Blog Not Found:If you want more lives, give them more choices."に譲るが、統計的に見ればこの国の女性の200人に1人が毎年一度はこの選択肢を迫られ、一生であれば3人に1人は「他人事」ではなく「自分ごと」としてこの問題に直面するというのは、あまりに過度な負担なのではないだろうか。

中絶するかしないかは、究極的には当事者の問題であるが、その「当事者化」の確率がこれほど高い以上、非当事者もまたこの問題に対して何かをする、具体的には「当事者化する確率の最小化の手段を講じる」ことは考える義務があると思う。数字から見れば、この問題は厚生労働省、いや政府が向き合うべき最大の問題なのだから。

Dan the MAN