これを読んで最初に感じた疑問が、タイトルの助産婦のこと。

ブログ時評 : 医療崩壊が産科から始まってしまった [ブログ時評59]
産科医療の実情が6月中旬、次々に明らかになり、日本の医療システムが崩壊する悲鳴を聞いたと感じた。まず、日本産婦人科学会の実態調査で、全国で5、6千はあると思われてきた分娩施設が3000カ所に急減した。多くは都市部に集まっており、自分の住む町でお産が出来る市町村は大幅に減った。1万人以上いると思われた分娩を扱う医師数もわずか8000人だった。次いで、産科医は当直が月平均16.7回で当直明けの日もほとんどが働き続け、週平均61時間労働――と勤務実態を示す厚生労働省研究班調査が出た。

現代日本人の大多数は、病院で生まれ、病院で死ぬ。

しかし、これらの全てが、病院を必要としているのだろうか?

「オニババ化する女たち」には、まだ病院が人生の出発点や終着点でなかったころ、女達はどうしていたという話がたくさん出てくる。彼女達のほとんどは、出産を一人でこなしていて、難産の時だけ産婆を呼びにいっていたというのだ。しかも産婆を呼ぶ呼ばないの判断は、医者ではなく彼女達自身がしていた。

「昔はよかった」というのとはちょっと違う。著者によると、こうした能力はすでに女性の体にそなわっているのであり、その声にちゃんと耳を傾けさえすれば、誰でもそれを「自分のものにする」ことが出来るようでもあるので。

私は男なので、それが本当かどうかを断定することは出来ない。が、思い当たるふしはいくつもある。

長女の出産の際、私は仕事を抱えており、朝産気づいた妻を産院に送っていってその足で仕事に行ったのだが、妻は「あまりに出産が順調」で、当直医師が来た時にはもう出産が完了しており、医師は出番なしだったようだ。次女の時には今度は立ち会うことが出来たのだが、分娩室に入ってから20分で出産が完了した。文字通り、「案ずるより産むが易し」だったわけだ。

その一方で、友人には「10時間以上の難産」「結局帝王切開」という話も少なくなく、こと出産に関して言えば「女性」という言葉でひとくくりには出来ぬほど個人差が大きいのだというのが父になってみての印象だが、その一方、やはり話を総合すると、「順調な出産の場合、産婆の方が医者より役に立つ」という結論になる。

最近は世界的にも助産婦の役割が見直されていて、彼女のかつての仕事はJICAのプロジェクトでブラジルに助産婦を普及させることだったのだそうだ。

確かに産科の状況は危機的にようにも思える。しかし助産婦の存在を抜きにしてこの問題を語るのには、かなり無理があるのではないか?

昨今の産科をめぐる話題で、私が一番違和感を抱いているのは、その議論に助産婦がほとんど登場しないことだ。もちろん産婦人科医なしにはうまく行かない出産もあるだろう。しかし全ての出産に産婦人科医が立ち会うというのは、現時点ですら実はありえない。産婦人科医の受難は、彼らだけに問題の解決を迫ってきた結果とも言えないだろうか?

出産に限らず、医療の問題は「不足」の問題よりも「ムリ、ムダ、ムラ」の問題の方が大きくないのだろうか?

出産に限らず、女の体というのは実はとても丈夫(robust)で、医療などはあくまでもそれを介助すべきものなのに、それに依存しはじめたのが問題の根底にあるというのが三砂ちづるの主張なのだが、一見の価値はあるだろう。「身も蓋もない」という書評があったが少し違う。「女性には身に蓋ができるだけの力がある」というのが本書の主張であり、「オニババ」とは身に蓋をするやり方を忘れてしまった女達を指している。どう蓋をしているのかというのは本書を読んでのお楽しみ。身も蓋もないだけあって目からうろこです。

Dan the Father of Two