たとえばこんな風に。
思考実験:2010年「殺傷ゲーム禁止法」制定 - Alternative 笑門来福 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]あまりにも痛ましい事件が多すぎる。
あまりに痛ましくて、「部下」であるKennさんまで乱入してきた。
CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyanceだいたい、まぁ、どう割り引いて見ても、元のエントリはクソだったわけですよ。
まあどう痛ましいかはすでにKennさんをはじめコメント欄とその他TBにあるから、それらに書いてあることはここでは述べない。ここで述べたいのは、いいとしこいた大人でも、報道即世界の縮図だと思い込んでしまうことの格好の実例になっていることだ。
多いのは、痛ましい事件そのものではなく、多いのは痛ましく見える事件の報道であり、そしてなぜそれが多いかと言えば、我々がそれを求めているからである。一人称で語れば、通り魔に殺されるのも「世間に負けて」首をくくるのも、どちらも比べようがないほど痛ましい。しかし三人称で語れば、後者は日常茶飯事であり、毎日「公平を期して」報道したら、名前を読み上げるのが精一杯でとても視聴者が感情を移入するほどの情報を盛り込めないだろう。
報道機関の名誉のために付け加えると、彼らとて「加工度が低い」情報を流すこともあることにはある。例えばこんな風に。
asahi.com:刑法犯100万件下回る 上半期まとめで7年ぶり - 社会殺人や強盗など凶悪犯が4965件(前年比12.6%減)、窃盗犯が74万5581件(同11.6%減)、詐欺などの知能犯が4万1992件(同16.4%減)。路上や駅など街頭での暴行が前年より約2割増加したため、粗暴犯は3万6793件(同4.8%増)だった。
しかしそれはどちらかというと「うちの報道は公正です」というアリバイ作りのために仕方なく、という側面もかなりあることは言うまでもない。
ちょっと考えればわかることである。数字が欲しければちょっとぐぐればわかることである。にも関わらず、こうした「人に見せられたジオラマを森と勘違い」する意見が後を絶たないのはなぜだろう。有名無名、老若男女はあまり関係ないのは、以前似たような趣旨で私もこのような記事を書いたことからもわかる。我々は、ジオラマを見て森を理解した気になるのが心底好きなようだ。前世紀にそれでさんざん痛い目にあったにも関わらずだ。ジオラマ作りの才能は、独裁者養成の必須科目でもある。
とはいえ、ジオラマそのものを否定してしまうのは、「痛ましい事件報道」を見て殺傷ゲーム禁止法を提案するのに通じる愚かさではある。ジオラマを正確に作ることが出来ない以上、要点を強調するのはやむ得ない。我々は神ではないのだから、プレゼンに本物の宇宙を丸ごともってくるわけには行かないのだ。
だからこそ、ジオラマを作る方も眺める方も、眉にはたっぷりと唾を塗り込んでおかねばならないのだ。困ったことに、眉の乾きというのはのどの渇きほど敏感には感じ取れない。だからお互いに「眉、乾いてまっせ」と声を掛け合う必要があるのではないか。
その意味で、Kennさんのentryはしごくまっとうで健全なものであり、そういう「部下」を持った平野氏がちょっぴりうらやましくある。私も今人材募集中であることは本blogの読者であればご存じかと思うが、私の眉の乾きを指摘するのも必要条件であることをこの場を借りて付け加えさせていただく。
Dan the Skeptic
となると、森を「正しく」理解するには、どうすれば良いのだろうか?というのが問題になりそうです。数字が欲しければググればわかるのは事実。しかし、それで森を理解したことにもなりません。算数の問題と違って、理解に客観的な「解」はありえません。「あまりにも痛ましい事件が多すぎる」という理解も、主観的な意見であるがゆえに、私は違和感を持ちません。主観は数字によって反駁できません。例をあげましょう。「なんか暑いんだけど」「でも12度だよ!」「(南極から帰ってきた)俺には暑いと感じるんだよ!」。主観は数字やデータでは否定できません。