私も今のところ「負けてなかった」のは、このことにいち早く気がついていたからだ。
分裂勘違い君劇場 - 格差は「不可視のリテラシー」によって引き起こされているそれらは、学校教育では、どうにもならない。なぜかというと、学校の先生というのは、「学校を出て学校に入った人たち」だから、学校以外の世界の原理を知らないからだ。世の中が、マーケティングで生産性でマネージメントでイノベーションになっちまってることを知らない浦島太郎だからだ。学校というところは、浦島太郎が浦島太郎を拡大再生産する工場みたいなもんなのだ。
しかし、学校が格差是正装置であったというのも、また事実なのだ。
「親族」以外の教育ルートを発見し活用したことこそが、今の先進国--全ての先進国--を先進国にしたのだ。「親の後を継がない方がいい場合もある」。これが、人員のより適切な配分を可能にし、共同体全体の収益力を高め、先進国においては「年収300万円」でもかつての貴族も不可能な「贅沢」を可能にしたのだ。
ケータイや年一回の海外旅行が贅沢に見えなくなったというのは、「空間的」な比較であって、「時間的」に比較すれば、今我々が当然のごとく享受しているものがいかに凄いことなのか否が応でもわかる。金持ちになることが凄いのではない。金持ちなる必要がなくった、少なくともかつてほど切実ではなくなったことが凄いのだ。
社会全体を豊かにする、というのは、それほど凄いことなのだ。
それを可能にしたのが、「教育のアウトソーシング」だ。これを導入したおかげで、子供たちは親が全く知らない技能や知識を習得することが出来る。今では我々の属性として「だれだれの娘/息子」というのはそれほど大きな位置を占めないが、かつてはそれこそが最重要だった。
分裂勘違い君劇場 - 格差は「不可視のリテラシー」によって引き起こされているそして、最高の師匠は、やはり親なのだ。
これを無実化したときに、近代がはじまったと私は考えている。
しかし、その「近代」が失われてつつある、どの親の元に生まれつくかが自分の将来に対して一番決定的な要素に再びなりつつある、それこそが我々の不安の源なのだ。
それでは、なぜ「学校が浦島太郎再生産工場」になってしまったのか?
それは、我々が「空間の格差」には敏感でも、「時間の格差」には鈍感だからだ。
空間の格差というのは、「同時代のどこに生まれたか」ということであり、時間格差というのは「いつ生まれたか」ということだ。同じ国の同じ程度の階層に生まれたとしても、それがいつかによって、我々が手にするものは全然違う。例えば、ケータイが贅沢でなくなってから、まだ10年とたっていない。多分本blogの読者の過半ははTVが贅沢だといえば、むしろ「そんなのビンボー人の暇つぶし」と思うだろうが、これとて掛け値なしの贅沢品だった時代もあるのだ。
教師を学校で育てるというモデルは、社会の変化がもっとゆるやかな場合は、それほど悪い手ではない。どの程度ゆるやかかといえば、教師となってから退職するまで、教師が学校で教わったことが陳腐化しない程度ということだ。そうであったのは、せいぜい戦前までではないのだろうか。
60年前にも陳腐化していたのに、今では分野によっては本を出版するころには陳腐化しているなどというものも珍しくない。社会の稼ぎ頭の業界ほどそうである。
にも関わらず、その60年の前半はうまく行っているように見えたのは、日本が学歴社会ではなかったからだ。学校での成績は、社会における地位にはそれほど繁栄されなかった。シャチョーさんたちは卒業証書をシカトしていたのだ。
しかし、これは生徒達のキャリアパスに、よけいな遠回りを強いることになった。人生で最も多感な時期に見聞きしたことが、社会地位の取得にあまり役に立たないのでは社会効率が落ちて当然である。もっとも悲惨だったのは、大学が真剣勝負の場ではなく、受験戦争と「受注戦争」の間の長い夏休みになってしまったことだろう。格差是正装置として最適の高等教育機関がリゾートになってしまったら、卒業生たちの「戦闘力」が上がらないのは当然だとも言える。
かといって、「エリート」の選別を高等教育機関で「完了」しようとするのもいただけない。フランスなど「本来の」学歴社会はこの方法を採用しているが、これは高等教育機関の価値を上げることにはなっても、社会全体の価値を上げることとは結びつかない。むしろ「教師の浦島太郎化」を助長する可能性の方が大きいし、実際そうなっている。
目指すべきは、学校の「娑婆シミュレーター化」であろう。
学校から、実校へ
そのためには、現役がしょっちゅう出たり入ったりできるようにしなければならない。ある分野の教師が、別の分野の生徒に臆面もなくなれるようにならなくては行けない。
blogosphereは、そのための場としてはかなり重要な役割を果たすようになるだろう。梅田さんがほれるのもむべなるかなである。
しかし、blogosphereでシミュレートできるほど娑婆というのは単純なものではない。「生」の凄い奴に触れずに凄さを実感できるほど、我々の感覚は凄くはない。そこに行けば、「凄い奴と同じ空気を吸える」という場所が、絶対に必要なのだ。
高校生ぐらいからある程度そういう場所に自由に出入りができ、職を得てからも節目ごとにそういう場所で時間を過ごせるような仕組みには出来ないだろうか?
そういう場所のもう少し具体的な絵が描けたら、ここで掲示することにしよう。
Dan the Dropout
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