実のところ、普段の私は徒歩と車では、迷わず車を選ぶ方である。
キャズムを超えろ! - 数学のテストで『電卓使っちゃいけないの、なんでですか?(c)jkondo』と教師に食ってかかった時点で、文系・理系の適性が決まってしまっている!?いやはやまったく、お二人とも色が出ていて大変に面白い。どちらの考え方がいい、悪いというつもりは毛頭ない。ただ、それぞれ文系人間の考え方と、理系人間の考え方なのだろうなぁと感じた次第
実はあの沢登りの前に、Gracier Pointという所まで車で上がっていった。
麓のYosemite Villageまでは車で30 miles、一時間ほど離れているということもあって、妻と長女はここから麓まで徒歩で降りることを主張した。徒歩なら麓まで4.6miles。確かに二時間かければ歩ける距離である。しかし標高差は3400ft = 1000m以上。写真はそこから麓を撮ったものであるが、ピクニック気分で歩くにはいささか厳しい。もしもう一人信頼できる大人のドライバーがいたら、私も同行して車を彼ないし彼女にフェリーしてもらうことを考えたのだが、妻と長女の組み合わせだけでは、事故時に対処ができない。何とか彼女達を説得して行ったのがあのYosemite Fallsなのである。
家族旅行一つとっても、いつどのようにリスクとリターンを按分するかというのは頭の痛い問題だ。「なぜ電卓を使ってはならないか」、逆に「なぜ徒歩ではいけないのか」問われる教師の辛さはイヤでもわかる。
しかし、その時に一番やってはいけないのは、「俺がそう言ったから」と権威でねじ伏せる手である。短期的には一番効果的かつ効率的な手であるが、これをやるとあなたの権威も損なわれる上、命じる相手の自律心も損ねてしまう。私はこの手のことを「権威の取り崩し」と呼んでいる。
他方、道理を尽くして説得する手は、手間も暇もかかる。時にはそれ故にあなたが恨まれることすらある。Gacier Pointではちょっとした口論になったし、Yosemite Villageまでの道のりでは彼女達はずっとふてくされていた。
しかし、それが「育む」ということではないのか。手間がかかるからこそ一日とかからずGoogleを使いこなせるだけの能力を持った子を、何年もかけて育むのだ。その過程においては、必ず「なぜもっと楽な方法を使ってはならないのか」「なぜもっと力量を試せる方法を使ってはならないのか」という二通りの質問が必ず出てくる。私自身は、教育の手間の八割はこの質問への答えを準備することなのではないかと思っている。
実際今回のYosemiteのケースでは、私は「難しすぎる」方法は多少の恨みを買ってでも「捨てさせ」、その代わりに「充分難しい」方法を用意した。授業の課題をググらせるのも誤りだが、フェルマーの定理にハマった子を放置しておくのもまた誤りだと私は思う。海水浴を存分に楽しむには、ライフガードがいるべきなのだ。
このさじ加減というのは、本当に難しい。今回のYosemiteのケースでも、実はけがをしたのは私だけというオチがついている。下手をするとミイラ取りは簡単にミイラになってしまう。かといってググったミイラの画像で満足してくれるほど、子供たちは「つまらない」生き物ではないのである。
しかし何もかも自分の手で用意できるほど我々は器用には出来ていない。自分が出来ないことをググらずに生きて行けるほど個々の我々の能力は高くない。
だからこそ、自分が何が出来、何が出来ないか、我々に何が出来、何が出来ないかを常に把握しておく必要があるのだと思う。そしてそれを把握するのに最も手っ取り早いのは、実際にやってみることだ。ただし充分なリスクヘッジをした上で。さもなければ「次にやる機会」そのものがなくなってしまうのだから。
作るのが理系、使うのが文系というのは、だからかなり皮相的な見方である。むしろ他人の作った発明発見を使い尽くしてまだ誰も発明発見されていないものを目指すのが理系的であるし、すでに発明発見されているのを承知でまだ誰も使っていない表現を探すのが文系的にも思える。
いつ使い、いつ作るのか、それが問題だ。文系理系を問わず。
Dan the Challenging Coward
まさに正義の見方。直しました。
Dan the Typo Generator