この3つ、しごく当たり前の心得のように見えるのだが....

H-Yamaguchi.net: 「愛国者」の3つの責務
(1)社会に支えられるのではなく、社会を支える側に回る
(2)「品格」や「美しさ」は、国ではなくまず自分に課する
(3)仲間内ではなく、自分と意見のちがう人と接する

しかしよく見ると、これらは実に結構な矛盾をはらんでいる。

まず、「社会を支える」。この対象となる社会は一体なんなのだろうか。

「日本」というのは自明のようでいて自明ではない。そこに生まれたから、そこで育ったからというのは理由として充分なのだろうか。例えば、日本国では日本で生まれても、両親が日本人でなければ日本人とは見なされない。そういう彼らに日本を愛せよという資格が日本にあるのだろうか。

そして、支える対象としての社会を日本なら日本、会社なら会社と決めた上で、そうでない社会に対してどう接するべきなのだろうか?自分の所属する社会を利するために、他の社会を害するのは自分の所属する社会を愛していることになるのだろうか?「愛国心」という言葉は、それが是であることを暗示しているように思えるのだけれども。

次に「自分に課する」。この「自分に課した美しさと品格」が、自分の所属する社会のそれと齟齬をきたす場合にどうするか。たとえば卑近な例としてドレスコードというものがある。そこにおいては他に規定された「美しさ」を「自分に課する」ことを求められるのだが、それは品格なのだろうか?デーモン小暮閣下は早稲田の卒業式に小暮ヨシノブではなくデーモン小暮としての装いで臨んだそうだが、「なんだその格好は」と問いただされて、「私はこれから社会人となるのだから、社会における格好をしているのだ」と返したそうだ。私にはこれはずいぶんと品格のある態度に思えたのだが、そうした「自分が自分に課した品格を認める社会」は果たしてどれだけあるのだろうか?

そして、「自分と意見のちがう人と接する」。仮に自分がそう思っていても、自分と意見のちがう人々がそれを拒絶した場合どうふるまうべきか。無理にでも彼らに接してもらうのがいいのか、それとも彼らの拒絶する権利を尊重するべきなのか。

H-Yamaguchi.net: 「愛国者」の3つの責務
私がやろうとしたのは、そういった立場のちがいを超えて、最大公約数的に合意できそうな、あるいは少なくともしやすそうな、「愛国者」の負うべき責務というのはありうるか、という一種の思考実験だ。

ルールは少なければ少ないほどよいが、しかし少なすぎるルールとその厳格な適用は常にムリ・ムダ・ムラを生む。「最大公約数的合意」というのはむしろ理系的な考えであるが、それではなおのことここの我々は「互いに素」であることを出発点とした方がいいのではないか。

だから、私としては以下の責務を提案したい。

  1. 自らを助く社会を助けよ

裏を返すと、「片思いの愛国はよしとけ」ということでもある。報われぬ献身は短期的にはその社会を救うが、長期的にそれは問題から社会の耳目を遠ざけ、強いては社会を弱体化するきっかけともなるのだ。極論してしまえば、英雄は国を滅ぼす、ということでもある。

さらに極論してしまえば、愛国者の存在を前提にしないと成立しない国に存在意義があるか、はなはだ疑問なのだ。あなたを愛しもしない国をあなたが愛さねばならない道理はないではないか。

修身斉家には薬となる「愛」も、治国平天下ともなると「毒」となる。その認識を持たぬ「愛国者」ほど国に対して毒となる存在もないのではないか。

Dan the Japanese by Accident