読了。
「格差社会」を俯瞰するのに、内容、分量ともちょうどよい本だ。
本書は、大竹文雄から森永卓郎まで(以上敬称略)、本問題に関して各方面で積極的に発言している論者の論文を、文春新書編集部が各論併記の形でまとめたものだ。
「多様な論から、自分なりの答えを出す」というのが文春新書編集部の意なのだが、このことには好感が持てる。上の二名が載っていることからして、本書には統一的見解が存在しないというのは明らかだろう。正解がない問題を一つの本にまとめるにあたって、この方針はごく当然とも言えるが、それでも「色をつけよう」とすれば、論者の選択だけで実は出来てしまう。この点に関して文春新書編集部はなるべく「全体を混ぜると白に、しかしそれを混ぜないで各色はくっきりと」という方針に徹しているのは良心的だ。
とはいえ、紹介している私は「白」ではないので、特に私の考えに近い論者を二名紹介する。
一人は、大竹文雄氏。本blogのロングセラーでもある「経済学的思考のセンス」の著者でもある。氏の論文「『格差はいけない』の不毛」は、本書の最初に登場する。
氏の文に共通して言える事だが、論文はまず現状の把握を鳥瞰することからはじまる。そこではまず格差が拡大しているのは事実であること、しかしその主因は高齢化であることが見いだされる。実は格差が最も大きいのは高齢者で、そのことは過去も現在も変わらないが、その高齢者が増えていることが全体としての格差を拡大しているのだ。
にも関わらず、なぜ格差の感覚はむしろ若年者において顕著なのか?それは本書を読んでのお楽しみ。
これらの分析の後、氏はこう提言する。
pp.30結局、私たちが合意できる格差対策は、人生のスタート時点での格差を小さくすること、最低限の生活水準についてのセーフティーネットを作ること、税制を含めた広い意味の保険制度を整備して、運、不運の影響を小さくする事の三つではないか。
概ね同意である。とはいえ、「最低限の生活水準」がどれほどのものであるかというのは、空間(地域)的ににも時間(時代)的にも大いに変わってくるし、「運、不運の影響」も突き詰めると、そもそも日本で生まれ育つというのが運の産物である以上、社会的努力は最初の「人生のスタート時点での格差を小さくすること」に集中するべきだと私は考えている。
ところで大竹氏に業務連絡。本件にかんしてTBしようとしたのだが、関連Entryが見つからない。とりあえず最新記事にTBさせていただくが、売上げを伸ばすためにも一文書いたら一Entryでアナウンスしていただけるとありがたい。
次に、本書のトリをつとめている日垣隆氏の「『格差社会』なんてこわくない」。
こちらの持ち味は、虫瞰的視点。これは氏を卑下しているのでは決してなくて、氏が鳥瞰的視点にも通暁していることは彼の書いたものを見ればわかる。それを踏まえた上で、氏が必ず「自分にはこう見えて、そしてこうした」と語る。この「私小説的ノンフィクション」とでも言うべきスタイルは、ありふれていそうで意外と少ない。
ここでは氏は彼が子供たちをどう育ててきたかを、森永氏に反論しつつ紹介した上で、こう結んでいる。
悪いのは「社会のせい」だと言い募っていても、現実の子どもたちはどんどん育って社会に出て行かなければならない。全体状況と、個別の処方箋は、次元が違うのである。そこを混同して自分や自分の子どもも「二極」のどちらかに選り分けるような短絡思考と、まずは縁を切る事だ。
まさに日垣節。結局全体状況と個別の処方箋では、個別の処方箋の方が優先なのは、格差社会に限らず社会問題の真理である。
とはいうものの、「個は社会に対し、全体状況の改善に対して何をどの程度投資すべきか」という問題は残る。ブラックジャックがいれば町医者は不要とはいかない。またブラックジャックだけではCTやMRIは作れず、結果としてブラックジャックが割を食ってでも、医療全体に投資することにより、普通の医者でもかつてブラックジャックでなければ助からなかった症例を直せるようになる。あるいは種痘のように、問題そのものを消滅させるという選択肢すら時にありうる、というのが社会設計の醍醐味でもある。
日垣隆にとって自分で出来てもあえて社会に任せるべきことは何なのかいうことを是非一度読んでみたいものだ。
結局のところ格差問題に関わらず、社会問題というのは公私の分配比率に還元しうるのだと思う。全てを公に配分しても、全てを私に配分しても、私の「取り分」の総量は減ってしまう。その上配分によって受ける効用は、時代とともに変わって行く。
その意味で、格差問題というのは、現代日本の問題であると同時に、人類社会の永遠の課題なのである。
Dan the Social Being
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