見事な分析なのだが、一つだけ引っかかった点がある。

ハコフグマン: YOUTUBEが教えてくれたこと
業界人にとっては目の上のたんこぶ以外の何者でもないYOUTUBEだが、3つの重要な視点を、テレビ関係者に教えてくれているように思う。一つは、長尺ものは嫌われる。二つ、視聴者はそれほど画質に拘泥していない。三つ、見たい時に見たいものを、という膨大なニーズの存在。

それが「長尺モノは嫌われる」という点。TVでは確かにそうなのだが、それがむしろ好かれている世界もあるからだ。

それは、フィクションの世界。

小説もマンガも映画も、長尺化が著しい。例えば小説。日本ではちょっとわかりにくいのだが、英米のフィクションは、ペーパーバックなら縦に立てて立つのが今や一般的だ。日本ではこうしたものは上下巻かそれ以上に分けてしまうのでわかりにくいが、今や英米フィクションは京極夏彦あたりまえ、という感じが強い。400ページを切っていると「短い」と感じるぐらいだ。

ただし、日本も判形をコンパクトにしているだけで、長尺化傾向は変わらない。私は読んでないけど涼宮ハルヒだってすでに8巻。「当たった世界」は拡張されるのが当たり前となり、グインサーガに至っては100巻でも終わらなかった。

マンガの世界ではこれがさらに顕著なのはもはや言うまでもない。DEATH NOTEのように12巻ぐらいで完結するものは今やほとんどなく、連載モノは30巻、40巻当たり前となっている。ドラゴンボールのようにかなり無理して続けさせられるものも多い。このあたりはサルまんに詳しい。

映画の世界もそうで、昔は2時間を超えるものは滅多になかったが、今や大作はそれが当たり前。3時間以上のものも珍しくない。それだけならまだしも、英語でsequelという、パート2、3があるのが当たり前という状況になっている。

TVにしても、シリーズの大型化、長期化がとくに合州国で著しい。The Simpsonsなんか、私がティーンエイジャーの頃からやってる。

この違いは、一体なんだろう。

供給側から見た場合、説明は簡単で、それは「世界構築コストの高騰」ということになる。フィクションというのはどんな小作品でも、小世界を構築した上でそれを覗くという構造になっているが、世界を構築するのは楽じゃない。ただでさえ楽じゃないところにもってきて、今や「むかしむかし」では読者や視聴者は納得してくれず、それがどんな昔で、どんな技術が使われ、どんな人々が暮らしているかを面滅綿密に描き込まなければならなくなってきた。

だから、世界を一から作り直すより、「当たった」世界を使い回すようになる。

供給側の論理は、これで充分だろう。

問題は、需要側がそれをよし、というよりそれをむしろ供給側に積極的に求めているように見える事だ。かつては小さな世界を小さな覗き穴から見て満足していた読者や視聴者が、自分が気に入った世界により「どっぷり」と浸かるようになってきた。

その代わり、一旦気に入った世界が手に入ると、他の世界を見に行くよりその世界により深く入り込むことを求めるようになる。

「世界を楽しむ」のもまたコストだからだろうか。少なくとも、「自分が気に入る世界を見つける」まで「さまざまな世界を巡る」のはコストだろう。だから、「少ない世界を、より広く」という方向は、需要側にとっても「楽」ではある。

しかし、その世界がつまらなくなった時、あるいは「世界の創造者」がその世界の構築運営に倦んだときはどうなるのか。ドラゴンボールでは創造者鳥山明は、何度もそこから下りようとしては、何度も引き戻された。読者や出版社にはうれしいことだったが、鳥山明にとってはどうだったのだろう。

星新一の偉大さが、改めて実感される。1001もの世界を築いたものが他にいるだろうか。一つの世界の話を1001夜続けるほうがよほど楽なのに。

Dan the Stranger in a Strange Land