私も参加してました。
ユメのチカラ: 梅田望夫氏との対談イベント:「シリコンバレーのビジネス風土」と「オープンソースの思想」やりました、対談イベント。オープンソースの話が多すぎた。My Life Between Silicon Valley and Japan - 昨夜の対談イベントの音声、YouTube映像
ちなみに、ときどき会場から突っ込んでいる人はDan Kogaiさんです
多すぎたといっても、とても充分話されたとは言えないので、その「語られていない」部分をネタにしようと思う。
まず、実際に今も現役の「オープンソース・プログラマー」として、一番違和感があったのは「1998年」。吉岡さんはこの年が「オープンソース元年」とおっしゃるのだけど、あくまでそれは"Open Source"という言葉が登場した年ということであって、いわば起承転結の結だけ見て、物語を語っているような違和感がある。
有名どころのLAMP(Linux, Apache, MySQL, Perl/PHP/Python/Ruby)だけ見ても、はじまったのはLinuxが1991年、Apacheが1995年。MySQLも1995年。PHPが1994年、Rubyが1993年、Pythonがちょっと定かではないのだけれども1990年前半、Perlに至っては1987年で、1998年にはこれらのOpen Source Projectはどうみても「成人」であった。
要は、すでに上手く行っていたこれらに改めてOpen Sourceという名前が付いただけであって、このあたりはWeb 2.0という言葉と同じである。「はじめに言葉ありき」ではなく、「最後に言葉ありき」なのである。
この事からもわかるように、1998年になってからおっとり刀でOpen Sourceに加わった者たちに対して、それ以前からずっと関わっていた者たちは意外に冷ややかである。「BuzzwordsよりContributionを」というのが彼らの本音ではないだろうか?
このOpen Sourceという言葉が無意味とまでは言わない。そのおかげでOpen Source Committerたちが「市民権」を得たというのも一面の事実だし、そのおかげでそれ以前よりは資金も入るようになってきた。今まで「片手間」で関わらざるを得なかったプロジェクトにも、一部人員が「フルコミット」出来るようになったのも事実だ。
しかし、そこにはやはり「おいしいところだけ持って行こうとする抹香臭いスーツ」の臭いがぷんぷんする。資金はいいソースを輩出している者を飛び越えて、一番声の大きなものに行きがちなのは今も変わらないし、Open Sourceで利益を得たものがきちんとCommunityに還元しているかといえばそうでもない。「善意の総和は悪意の総和より」も大きいといっても、善意にただ乗りしている者が圧倒的大多数であるのは事実だ。
何もOpen SourceへのContribution--貢献というのは、codeが書けなければ出来ないわけでは決してない。文章力があるものは文章を、金があるものを金を出すという有り様こそ自然なのだが、code以外のcontributionというははっきり言ってお寒い。これらの「code過多、それ以外不足」という状況がきちんと改善しないかぎり、Open Source Rocksとは言えても、Open Source Rulesとは決して言えないのだ。
とはいえ、Rulesとまでは言えなくともRocksとまでは言えるようになったのも事実だ。なぜそうなったのかは、実は関わっている本人にもよくわかっていないのだが、次のentryからそのあたりを考察していくことにしよう。
Dan the Open Source Programmer
See Also:
「資金はいいソースを輩出している者を飛び越えて」の辺りを読んだとき、
SoftwareないしはOpenSourceの「JASRAC」みたいな存在が出現する、
という嫌な未来を一瞬妄想してしまいました。
ソフト企業とプログラマ(特に実力派の)との関係が、音楽企業とミュージシャンの関係と、似た感じになるという。
Rubyが成人したタイミングは…難しいですね。バイブル前夜の頃といえば「ライブラリは段々増えてきたね。まだまだ欲しいけど。でも致命的に欠けているのは(キラー)アプリだね」とか言ってた時期だったような気が。いっぽう当時との言語の機能で違いといえば咄嗟には「@@」くらいしか思い出せないです。