本書を読んで、やっと内田樹に対して感じていた違和感の正体がつかめたように思えた。
結論から言うと、こうなる。
404 Blog Not Found:書評が悪くてすみません-北斗柄さんのコメント内田先生のブログで風水の話が出たときに感じたのは、この人もまたfashionable nonsenseなポモだなということでした。
内田先生の文章に、実は私は共感することが多い。なぜなら、
ためらいの倫理学 pp.349[自分の文章は]ほとんど「同じこと」を、手を換え品を換え、執拗なまでに繰り返し主張していることがよく分かった...それは何かと言われても、さすがに一言ではうまく言えない。無理して言えば、それは「自分の正しさを雄弁に主張することができる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ」ということになるだろう(なんだ、一言で言えるじゃないか)
という点において禿同するからである。
問題は、先生が自分の愚かさをどう吟味しているか、なのだ。
私にとって、自分の愚かさを吟味するということは、出発点を疑うことからはじまる。ある仮説を立てるとき、その仮説の前提となる状況をまず正しく認識しているかどうかを疑うわけだ。これは実に難しく、それが上手に出来ないこと、そしてそれを自覚することもまた自分の愚かさの吟味なのだけど、どうにも内田先生はこの段階をシカトしているとしか思えないのだ。
私家版・ユダヤ文化論 pp. 22では、私自身の暫定的なユダヤ人定義からこの論考を始めることにしよう。
[中略]
それは「ユダヤ人とは何でないのか」という消去法である。
大変魅力的な導入であり、そしてユダヤ人を「でない」というネガから描き起こすことは、本書の主題へと通じる。
Ibid. pp.52ユダヤ人とは人々が「ユダヤ人だ」と思っている人間のことである。
実は本書の主題やユダヤ人でもユダヤ文化でもなく、「他者によって規定される自己とはいかなるものか」ということで、その例としてユダヤが使われているのである。
大変面白いのだが、しかしそもそも「ユダヤ人とは何でないのか」という消去法を使わないとユダヤ人は定義できないのだろうか?
ところが、実はユダヤ人の定義というのは、日本人の定義と同程度、いやそれ以上に簡単なのである。
ユダヤ人 - Wikipedia古い民族の「ユダヤ人」と、ユダヤ教徒の「ユダヤ人」は同一ではない。現代イスラエル国の帰還法によれば、母親が「ユダヤ人」であるか、ユダヤ教に改宗した人のこととされる。一方、トーラーによると、ユダヤ人であるためには母親がユダヤ人でなければならない。
そう。実はユダヤ人になる一番簡単な方法は、ユダヤ人を母として持つことなのだ。「おまえのかあちゃんがユダヤ人」ならおまえはユダヤ人、というわけである。
実に簡単で、曖昧なところが全くない定義である。「父親がユダヤ人」よりさらに曖昧でない。父親というのは母親より遥かに曖昧な存在なのだから。
これは、ユダヤ人を語るときのイロハのイである。なぜ父親ではなく母親かは、いろいろなところで語られているのでここでは割愛する。興味のある方は、ヘブライ文学博士である手島佑郎氏の各著作に目を通されるとよいかと思われる。一番簡潔なのは、氏初の単著、「ユダヤ人はなぜ優秀か」(ISBN4-377-30461-5)だと思われるが、残念ながら今同書は入手は困難なようで、AmazonどころかGoogleのISBN検索でも引っかからなかった。
ところが、内田先生はこの「ユダヤ人の母の子」に関しては全く触れていないのである。ゼロ、である。「本書では『血統ユダヤ人』は扱わない」などの但し書きすらない。まるで内田先生がこのことを知らなかったかがごとくである。
そう。公理をシカトしているのである。いくら私家版といえど、ユダヤ文化論を唱える以上、ユダヤ人自身が規定した公理を無視するのはあんまりではないか。それとも本書に書かれているのは「脳内ユダヤ人」に過ぎないのだろうか?
内田樹の研究室(2006): 『私家版・ユダヤ文化論』脱稿人並みはずれて猜疑心の強い私がいちばん信用していないのは自分の判断の正しさである。
内田先生に私が感じてきた違和感、それは「公理の無視」なのだ。「自分の判断を信じない」ということは、「公理をおろそかにする」ということを正当化するのだろうか?むしろ私はこの公理の無視を、自分の愚かさに対する開き直りと感じてしまうのだ。それはむしろ、他人の愚かさを雄弁に主張することにつながりはしないだろうか?
前述の「ユダヤ人はなぜ優秀か」で、手島氏はこう述べている。
「ユダヤ人はなぜ優秀か」 pp.16ところが、ユダヤ人の場合、そういう生活環境上の相違を超えて、まず「自分はユダヤ人である」という自覚が相互の絆となっている。この自覚があるならば、たとえ日本人のユダヤ教徒であっても、ユダヤ人社会には問題なく受け入れられる。
手島氏によれば、ユダヤ人というのは、「一度でも自分がユダヤ人であることを認めたことがある者」 のことなのだ。一旦自認したら、あとでそれを否定しても「元ユダヤ人」ではなくユダヤ人である。この点は合州国海兵隊員(U.S. Marine)に似ている。一度でも海兵隊員になったものは、ex-Marineとは呼ばれない。詳しくは「アメリカ海兵隊」を参照のこと。
実は、「ユダヤ人がなぜ優秀か」という考察において、手島氏と内田氏はかなり似通った結論を出している。その結論が何であるかは是非自身の目で確認していただきたいのだが、しかし肝心の出発点が正反対なのである。
ユダヤ人は他者によって作られるのか、それとも自ら成るのか。
これは昼と夜が来るのは、天が回っているとするのか地が回っているとするのかと同じぐらい根本的な違いではないか。
手島氏の著書には、ユダヤ人の母を持たず、自ら成ったユダヤ人が登場する。ところが、内田先生のユダヤ文化論では、ユダヤ人の名士が数多く列挙されているにも関わらず、そこにSammy Davis Jr.の名前は登場しない。ユダヤ人が血族にあらず、という例としてこれ以上有名な例はあまりないと思うのだが。
私はもちろん手島説を取る。単に手島氏が日本で一番の「ユダヤの権威」だからではない。私自身の経験からもそう感じているからだ。ユダヤ人は世界の人口の0.2%といっても、決して世界中に同密度で存在するのだではない。たくさんいるところにはたくさんおり、そして私は10代後半から20代初期にかけて、ユダヤ人に囲まれて育ったのだ。私はユダヤ人を母に持つわけでもないし、ましてやユダヤ教徒ではないのでユダヤ人ではない。が、ユダヤ人達は私にとってはもっとも親しみやすい「お隣さん」であった。ルームメイトもユダヤ人だったし、ガールフレンドも一番多かったのはユダヤ人。なぜ親しみやすかったかといえば、彼らの多くが「自分の愚かさを吟味」していたからだ。
もちろん、そうでない、「自らの愚かさを共に味わえない」ユダヤ人もたくさんいた。皮肉にも、そうでないユダヤ人の多くがユダヤ教徒でもあった。好きな人も多いけれど嫌いな人だって少なくない。その意味でユダヤ人というのは私にとっては格別な存在ではなく、ユダヤ人があまりいない日本においてユダヤ人が格別視されることに困惑を禁じ得ない。
ところで、英語で「教育ママ」に当たる表現は Jewish Mother という。しかし本当のJewish Motherというのは入社式まで同伴する子離れできない母とは対局にある。子に自我を持たせることに手間ひまを惜しまないのがJewish Motherということであれば、私の母にもその資格はあるかも知れない。
実際のユダヤ人に対する内田先生の語る「ユダヤ人」というのは、Jewish Motherに対する「教育ママ」のように感じられてならない。これはユダヤ人のほめ殺しであり、そして著者自身の愚かさに対する居直りではないのだろうか。
Dan the Son of a "Jewish Mother"
怪しいと思うだけで具体的なことはなにも
言えない緑の狐さんでしたw