以下のニュースをきっかけに、著作権に関する話題がまたblogosphereを賑わせている。

livedoor ニュース - [著作権]文芸家協会などが保護期間延長を要望
日本文芸家協会など著作権を管理する16団体でつくる「著作権問題を考える創作者団体協議会」(議長・三田誠広日本文芸家協会副理事長)は22日、文化庁に対し、著作権の保護期間を著作者の死後50年から70年間への延長を求める要望書を提出した。
煩悩是道場 - 日本に於ける著作権の保護期間延長に強く反対致します。
ブロゴスフィアには、著作権に対してリベラルな考えであるアルファブロガーの人が沢山おられます。 そういった方達は、今回の問題をどのように捉えていらっしゃるのでしょう。 是非ウエブログ上で著作権の期間延長に対してのご自身の忌憚のない意見を書いて頂きたいと思います。

その意見を書く前に、まずは問題を整理しておきたい。

まず、一口に著作権といっても、それに付随する権利がたくさんある。以下、「2ちゃんねるで学ぶ著作権キター」からその分類を引用する。

同書 pp.22 より

ここにあるとおり、著作人格権と著作(財産)権は別々のものなのだけど、しかし我々が著作権について考える時には、この二つを混同しがちだ。しかし、この二つを分けて考えることは、「著作者の権利」を考えるにあたって重要なのでここで改めて記載した次第だ。

ここで、改めて、我々が何故著作するのかということを考えてみたい。

大まかに言うと、栄誉と金、ということになる。金と栄誉、ではない。順番重要である。

我々は、著作がすぐに金になるわけでないことを知っている。それでも著作行為は後をたたない。それはなぜかというと、栄誉、ということになるのだろう。ここでいう「栄誉」とは、なんとか賞とかかんとか賞を取りたいがため、ということではない。「私はこの世に対し何かを成したことを伝えたい」という欲求のことである。

それを担うのが、著作人格権なのだと私は理解している。そして私自身は、この著作人格権に関して言えば有効期間は70年どころか100年でもいいと思っている。いや、ものによっては事実上不滅かも知れない。たとえば「名月をとってくれよとなく子かな」という俳句を読んだのは小飼弾であると言った所で、小林一茶を知らない人でもそれがガセであることはすぐにわかる。

しかし面白いことに、死後ただちに消滅するのは著作人格権の方なのだ。だから「名月をとってくれよとなく子かな」と詠んだのはオレだと私が主張することは法的には何の問題もないということになる。

それに対して、金を担う著作財産権の方は、実際に問題になるのは、その著作に人気が出てからということになる。上の表を見ても、まるで不動産のようにいろいろな権利が付帯しているが、しかし時がたっても消滅しない不動産のごとく著作物を扱ってもいいのだろうか?

不動産と著作物は、消滅しないという点では似ている。著作物を載せた媒体、キャンヴァスやレコードなどは劣化しうるが、劣化するのは媒体であって著作そのものではない。その扱いが法的に以外と似ているのはそのためだろう。

しかし、決定的に違う点が一つある。不動産、特に土地は基本的に総量が変わらない、すなわち保存則が働くのに対し、著作物は人の営みが続く限り増える一方だということである。だから、ある著作物が著作物の総和に占める割合というのは、放っておいても時とともに減衰して行く。

この減衰効果がきちんと法に反映されていないのが、著作権をめぐる問題の根本にあるのではないか。死後50年後ないし70年後にとつぜんプツンと切れるというのは、どう考えてもおかしいのではないか。ある著作物に対する権限の「公私比率」が、少しずつ公の方に推移するというあり方は駄目なのだろうか?

たとえば、薬価は同じ薬に関しては年々減少する。これは新薬開発を促すための措置なのだと思われるが、これと同じことが著作に関しても可能なのではないか。現時点において、著作権保持者は保持した著作物のそれぞれの権利に、事実上いくらふっかけてもいいことになっている。値段を設定するのはあくまで保持者で、使用者はそれを呑むか、使用を諦めるかの二つに一つだ。もう少し「なめらかな」運用は不可能なのだろうか。

著作権に関しては、人格権が過小に、そして財産権が過大に評価されているというのが私の感覚である。それではどうしたらよいかは、entryを追って考察して行きたい。

Dan the Author