これを見てひらめいた。

Life is beautiful: 自らが情報を発信する側に立たなければ決して理解できないことがある
写真などには全く興味を持ったことのなかった私だが、いざデジカメでさまざまな被写体を撮ってみるとこれがとても楽しいのだ。思ったとおりの写真はなかなか撮れるものではないのだが、それでも何十枚かに一枚は「少なくともtreemoにアップロードしても恥ずかしくない」ぐらいの出来にはなる。

CGMの世界における創作とは、プログラミングにおける富豪的プログラミングなのだと。

デジカメは、単にフィルムがフラッシュメモリーに代わったカメラではない。

デジカメになって、写真の取り方が変わらなかった人がいるだろうか。

銀塩フィルムの頃は、今よりずっと慎重にシャッターを切っていたのではないだろうか。

デジカメ時代における写真の撮り方は、撮れるだけ撮って、出来のいいものを残すというものに代わっている。そもそも消さずに撮れる枚数が一桁増えている上に、いつでも消せるという気安さもある。

実はこれ、銀塩時代でもプロはそうしていた。一枚の決定像を撮るためにフィルムを何ロールも使い、現像も何通りも試してみて....しかし銀塩時代にはとても素人には無理だった。フィルムは安くないし、現像は暗くて臭い。それが、何枚でも撮り放題、撮ったものは電脳で加工したい放題となった。

量の革命が、作業の進め方にも革命をもたらしたのだ。

CGMもまた、その延長上にある。

かつては、Webサイトを一つ作るのも大変だった。たった10年前でも、Webサイトを作るものはサーバーの立ち上げからWebサーバーのインストールからHTMLの加工まで、一通りこなせなければ一人前とは言えなかった。しかし今では、blogを書くのに日本語ワープロを使う以上の技能は不要だ。容量だって1G2G当たり前。書きたい事を、書きたい時に、書きたいだけ書けばいい。一旦記事をアップしたって直すのはあっという間。これなら書けるだけ書いて、気に入ったものだけ残せばいい。いや、イマイチな作品を消す必要すらない。それらはPagerankやはてブの彼方に徐々に去るのだし、しかも万が一必要を感じてもすぐに取り出せるのだから。

たしかにそうやって富豪的、すなわち資源をチープに使って創作されたもののチープ率は、そうでないものより高いだろう。しかし、その中から使えるものがあればそれでいい。そして自分にとってのゴミに人が宝を見いだすこともあるかも知れないし、その逆もまた真なり。創作のみならず創作過程をそのまま公開できるということは、さらに創作を容易にするのだ。

とはいえよく考えてみると、創作が根源的には取捨選択であるということには何ら変わりはない。以前は作業コストも公開コストもべらぼうに高かったので、それだけおそるおそる作業し、自分が低品質だと思う作品は人に見せる前にお蔵入りにしていただけだ。

だから、CGMにおいては、慎重に作業して充分な完成度に達してから公開するというアプローチと全く逆の創作手順が求められる。出来不出来はさておき思い立ったら作り、未完成でも公開する。これは、オープンソースにも通じる考えでもある。

かくして私は今日も生煮えの文章もどきを、誤字脱字もかまわず投稿するのであった。

Dan the Creator 2.0