「99.9%は有罪」。本書「ドキュメント検察官」で一番印象に残った言葉だ。

この数字をあなたはどう見るだろうか。

そこにあなたは日本の精密司法の優秀性を見るだろうか。冤罪の立証の困難を見るだろうか。はたまた罰し易しのみを罰し、罰し難きは敬遠していることを見るだろうか。

私が見たのは、空恐ろしいまでの民主の欠如、だ。

オビより
犯罪を捜査し、法と証拠に基づいて起訴し、裁判で真実を追求する検察官。政財官界の不正に鋭く切り込み、脚光を浴びることもあるが、活動の全貌は国民から見えにくい。検察官の日々の取り組みはどのようなものか。裁判員制度の実施、国境をまたぐ事件の増加など、時代の大きな変化に、検察はどう対応していこうとしているのか。時に世間の批判を受けながらも、「正義」の担い手として期待を集める検察官たちの実像を描く。

この「正義の担い手」とは一体誰だろうか?

民主主義社会においては、当然「われわれ」ということになる。合州国においては、刑事裁判の原告は100% "People"となっている。そこにおいて検事というのはあくまで市民の代理であって、重要なポストに関しては選挙で拘束されることも多い。また検事というのは政界へのキャリアパスの仮定となっている場合も多く、有名どころではNYCの前市長Rudolph Giulianiもそうである。

ところが、どうも日本では正義を担えるのは検事だけのようなのである。少なくとも刑事事件においては。犯罪の被害者たちの検事を見る目は、代理人を見る目ではなくむしろ神を見る目に近い。そして検事達もそれを当然と思い、被害者たちの期待に答える、というより祈願を成就させるべく奮闘する。

それは単に法の執行にとどまらない。法の作成もまた彼らの手にかかっている。「赤レンガ派」と称される法務省勤務の検事達は、同省の要職を占め、法案作成に重要な地位を占めている。

法のプロが法を起草するのはどこの国も同じだが、特徴的なのは日本においては検事が検事のまま法案作成に携わるということだ。合州国では検事が市長や知事となって行政のトップとなるだけではなく、判事となって司法に携わったり、議員となって立法府に入ったりということも珍しくないが、行政職である検事が検事のままで立法に関わることはまずない。

議員立法が珍しい日本では、行政と立法の境目が曖昧だが、それは特に検察において顕著に思われる。そしてなぜそうかといえば、日本において正義を成すのは「われわれ」ではなく「お上」だからである。

finalventの日記 - Web2.0的な民主主義的な何か
作為の契機よりも、ルールは創出できるし、やってみたら価値がわかる。やってみると最善のルールができるかもしれない確信というもので、この確信にはルール主義がある。

なぜGeekたちがそうするのか、それが叶わぬ場合でもそれを希求するのかといえば、それがGeekたちにとってのプロトコルだからだ。Geekたちはルールをプログラムする。それをWebsphereが実行(execute)する。その結果は別のGeekたちによってよしあしが判定(judge)され、その結果に基づいてGeekたちはプログラムを直す。

民主主義が民主であるのは、この法(code)をプログラムするのが市民であるというのが大前提のはずだ。それは建前上においては日本ですら例外ではない。しかし主であるはずの市民は、法を通じて行政を支配するよりも、ただただ行政に正義の実現を求めているようにも見える。バグがあっても悪いのは自分たちではなくお上なのだと。

2009年に裁判員制度は、この状況に変化をもたらすだろうか。本書のページの多くも、この話題に割かれている。検事の一人は、現状と裁判員制度下での裁判とでは、国内登山とヒマラヤ登山ぐらい難易度が違うと言っていたが、本来であれば裁判員たちこそが登山家で、判事や検事はそのシェルパであるべきなのではないのではなかったのか。

本書はドキュメント弁護士ドキュメント裁判官に続く読売新聞社会部による「法曹三部作」の最後で、最後になった理由はやはり検察が取材対象としては一番難しいと取材班が正直に告白している。三部作が完結したことで、法曹界の現状はずっとわかりやすくなったと思う。両書とあわせて手元においておきたい。

しかしこうなると「ドキュメントマスメディア-第四の権力」も読みたくなってくる。しかしさすがにこれは読売新聞社会部の手には終えないだろう。誰が書くことになるのだろうか....

Dan the Taxpayer