内に外にどたばたしているうちにもう旬が過ぎてしまった感もあるのだけど、この問題に旬などないはずなので。

livedoor ニュース - 心臓病女児募金活動に ネット上で批判噴出
心臓病に侵された女の子への救済募金をめぐって、2ちゃんねるなどの掲示版が「祭り」状態になっている。手術などに必要な1億3,600億円を目標に、両親と有志が募金活動を始めたが、両親がNHKに勤務していることなどを理由に「高給取りなのに何故自腹を切らないのか」といった批判が噴出したのだ。矛先は他の募金活動にも向けられ、募金という活動そのものの透明性に疑いの目が向けられている。

まず、右肩のグラフの説明から。

これは本blogでも以前使ったことのある第19回 生命表から、日本人男女10万人がどの時点でどれだけ生きていて(グラフ左軸)、どれだけ死ぬか(グラフ右軸)をプロットしたものだ。平均寿命を過ぎた当たりにある「死のピーク」の他に、もう一つピークがあるのがお分かりいただけただろうか。

もう少しわかりやすくするために、そこだけ拡大してみた。見ての通り、人生の最初の一年というのは、ずいぶんと大変なことがわかる。最初の10万人のうち、女性なら298人、そして男性なら345人は最初の一年を乗り切れない。61歳までの死亡数で見てみると、この死亡数を上回るのは男性なら50歳、女性なら何と57歳の時である。


さらに拡大してみよう。21歳までで見ると、この初年度死亡率の高さが際立っていることがわかる。以下12歳ぐらいまでグラフはなだらかに下がって行く。

乳幼児の病死は痛ましい。他にも増して痛ましい。しかし同時に、それはありふれていることをもこの統計は教えてくれるのだ。なぜありふれているか?その理由の一つが、先天性の心疾患が実はありふれていることにもある。

心臓の発生と先天性心奇形
胎生期の初期に何らかの原因で心臓、血管の形成過程が障害され、完成時に種々の障害、奇形が生じた心臓病のことを先天性心奇形あるいは先天性心疾患といいます。新生児の約1%、すなわち100人に1人は先天性心疾患をもって生まれてきます。

そう。100人に1人。100万人いれば1万人。そのうちの何名かは、助からない。あなたも乳幼児を心疾患で喪った知人の一人や二人はご存じなのではないだろうか。

乳幼児臓器移植を寄付でまかなうことの第一の矛盾がここにある。「声の大きな」身内に恵まれた子供は、他の子を差し置いて助かる権利があるのだろうか、という矛盾が。もしレシピエントとなりうる子供の身内が全てさくらちゃんを救う会なみに「声を張り上げたら」ら、一人一人の声は全体にかき消されてしまうのではないか。逆に声を上げないサイレントマジョリティーは静かに座して、いや床に伏して死を待つべきなのだろうか。

それでも、その全員が子供のうちに死んでしまうのではないことも確かだ。100人に一人ということは10万に1000人。仮に乳児死亡のほとんどすべてが心疾患だとしても、残り700人は助かっているということになる。

実は日本はこの乳児死亡率の低さでは世界トップクラスだ。

厚生労働省:実績評価書
 母子保健は、思春期から妊娠・出産の時期を通して母性・父性をはぐくむとともに、児童が心身ともに健やかに育つことを目的とするものであり、我が国においては、すでに極めて高い水準にある。特に、乳児死亡率については、平成15年で3.0(出生千対)と、既に世界最高水準にあり、また、幼児死亡率についても平成12年には30.6(人口10万人対)であったが、平成15年には25.0になるなど減少傾向にある。

(参考)
諸外国の乳児死亡率
 アメリカ:6.9(2000年)、カナダ:5.3(1998年)、フランス:4.5(2002年)、ドイツ:4.4(2000年)、イタリア:4.6(2000年)、イギリス:5.6(2000年)

諸外国の幼児死亡率
 アメリカ:34.7(1999年)、カナダ:19.2(1998年)、フランス:24.7(1999年)、ドイツ:25.3(1999年)、イギリス:27.2(1999年)

うちアメリカに注目して欲しい。幼児死亡率に関しては日本の倍を超えているのだ。

幼児移植医療の次の矛盾が、ここにある。なぜ、日本よりも乳幼児死亡率の高い国、特に合州国まで子供を助けに送らなければならないのかという矛盾だ。現地の貧者の子供の命の値段は、日本の子の命より安いのだろうか。少なくとも、結果的にはそういうことなのだろう。合州国が移植医療先として人気なのもそれが理由の一つとしか言いようがない。

外国で乳幼児に移植医療を受けさせるというのは、寄付を使うか否かを抜きにしても、これだけの矛盾を強引にねじ伏せるということを意味する。ましてやそれを自分の力だけではなく人々の善意も使って成すというのであれば、これらの矛盾をねじ伏せるだけの「力」、たとえば説明責任が生じるだろう。また、矛盾をねじ伏せている以上は、後ろ指をさされることに耐えるのは事実上の義務ではないだろうか。

猫は勘定にいれません:僕が募金に違和感を感じるわけ
なんであれ「死ぬ死ぬ詐欺」というのはひどい言い方だし、ご両親の娘さんをなんとか助けたいという思いに嘘はないと思う。なのですが…ですが、正直言って募金という行為自体にどうしても拭いきれない違和感を感じてしまう自分がいます。自分がどうしてそんなふうに感じるのかを考えてみると、募金には、ある意味で「裏技」的なところがあるからなんじゃないか。ゲームにたとえれば(不謹慎ですいません)、普通にプレイしても手に入らないような額を、所持金のデータをいじって手にしてしまうような。

それでももし私の娘達が同じ境遇にあったら、私はそんなことは気にせず裏技を使ってしまうとも思う。裏とはいえ技は技だ。世の矛盾に唯々諾々と受け入れるほど私はお人好しではない。

しかし、それが裏技だという自覚はやはり持っていたい。人々の善意は当然、悪意がひとでなしというのは単に卑怯であるだけではなく厚顔というものであろう。

また、こうした子どもたちに「投入」できる社会の「善意」に限りがある以上は、善意に訴えるものはそれが善意に値するかを常に証明しつづける必要があるだろう。移植が終わっても抗免疫剤の投与が一生必要なように。その意味で、今回の「ちゃねらー」達の行動は行き過ぎもあったが結果的に「善意の監査役」として働いたと思う。

とはいうものの、「救う会」のありようも、それを監視する者達のありようも、もう少し「洗練」できないだろうか。個人単位で寄付を募る今のありようは、善意を「有効活用」しているのだろうか。かといって赤十字や「国境なし医師団」や赤い羽といった「エスタブリッシュド」な募金で、それによって助かった者の顔があまり見えないというのもいまいち善意を「発動」しにくい。

とりあえず一つだけ結論できるのは、自分がいつ寄付を出す側から募る側にまわってもおかしくないという事実だろう。いくら10万人に1人、いや100万人に1人といっても、いざ自分にそれがふりかかれば1分の1なのだから。今はそれしかわからない。

Dan the Lucky One