その癖、頑張った結果出る杭となると打ちにかかってくるのだから始末に負えない。

いじめが自殺につながる日本の「空気」 (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)
子供のいじめは中国の学校にも、米国の学校にもあります。しかし、中国や米国の子供がいじめに遭い、自ら幼い命を絶ったという例を僕は聞いたことはありません。でも、日本では起きている。それは、なぜなのでしょうか。亡くなった岐阜の少女の遺書が答えています。日本は過剰に「頑張ること」を強いるからです。

しかし、ここで言いたいのはタイトルを見ての通りいじめに関してではない。

経済成長志向というのも、この「過剰に頑張れ」に由来するのではないか。

bewaad institute@kasumigaseki(2006-11-02)
裏返せば、アウトプットが同じであれば、投入するリソースがそれだけ少なくて済むということになります。それだけを聞けば結構なこと、という印象を持たれる方も多いかもしれませんが、投入するリソースとは、お金であり、技術であり、そして何よりも人ということ。

現在の経済学の問題が、まさにそこにある。金も技術も人も「リソース」名の下に十把一絡げなのだ。文字通り、糞も味噌も、「銭化」して一緒に扱ってしまうのだ。

現在の経済学では、必要なものを、必要な時、必要なだけ手配するということをあまり評価しない。残飯が出るほど用意し、その残飯をゴミとして処理する方が「経済成長」の観点から行けばいいことになってしまう。裏庭で燃やしていたゴミを、清掃センターに持って行って処分するのが、経済成長するということなのだ。

実際、中国の宴席では、食べ残すのが礼儀だし、合州国では"Food Fight"というのがある。パイ投げとかのアレのことだ。実のところ「中二病的経済心理」が今もって「グローバルスタンダード」なのである。

「経済成長は必要である」というのは、その意味ではわざわざいじめられに行くのと同じではないか。レッドオーシャン戦略もいいところである。それをやっても勝ち目がないのは前世紀に文字通り海を真っ赤に染めて学んだのではないのか?

必要な成長はもはや経済ではない。経済学の方なのだ。

そしてそのことは、学者よりも市井の人々の方がよく知っているのではないか。その一つの明かしが、こちらだ。

図録▽1人1日当たり供給カロリーの推移(主要国)

見ての通り、今や日本人一人が一日に消費する食料は、韓国にも中国にも抜かれている。しかしこのグラフだけを見て日本人の食事が彼らより祖末だという人がいるだろうか。

ここまでは間違っていない。間違っているのはこうした「質」の変化を、経済成長という「量」でしか推し量る術をもたず、そして別の指標を開発しようともしない我々の怠慢にある。

少なくとも、人々の営みという複雑で豊穣な世界を、「経済成長」の一言でくくるのは傲慢以外の何者でもない。

少なくとも、もう一本の軸がいる。私はそれを「虚の経済」と呼んでいる。

404 Blog Not Found:複素業
その意味で、「実業」と「虚業」を分けて貴賤を語るというのは、実に卑小な行為であり、この事に気がついていない人がいわゆる「エコノミスト」にも多いということは、「エコノミックス」の世界はひょっとするとまだEuler以前ということなのだろうか?

そう。実から虚へ。この流れはもう止められない。少なくとも地球で経済が閉じている間は。そして「経済成長」という言葉からは、この流れがほとんど見えない。

もちろん、虚も実の器がないと成り立たない以上、実をないがしろにするわけには行かない。しかし同じ大きさの器により多くの虚を盛ることができれば、それは立派に「成長」の名に値しないだろうか?

この「複素経済学」の観点から見れば、日本は実に先進的ではないか。今やフロンティアは海でも陸でも空でもない。我々の心の中にあるのである。

Dan the Complex Man