この話で私の心がちっとも暖まらなかったのは、殺されて百両を奪われた夜鷹にとって何の救いもないからである。
単位未修問題であちこちからコメントを求められる (内田樹の研究室)お嬢吉三という悪党が夜鷹を殺して百両を奪う。 それを目撃して、「その百両をよこせ」と強請るのがお坊吉三。 二人が刀を抜いて金を争うところに、もう一枚上手の悪者である和尚吉三が登場する。
むしろ和尚はお嬢とお坊を成敗した上で、その100両で夜鷹を供養した方がよっぽど心が温まるのではないか?また和尚それだけの力があれば、和尚はそうしていたのではないだろうか?
これはどう考えても「正しいソリューション」ではなく、「誰にとっても同じ程度に正しくないソリューション」である。
いや、同じ程度ではない。夜鷹の存在を忘れてはならない。このように一見「誰にとっても同じ程度に正しくないソリューション」に、談合がある。夜鷹ならぬ納税者さえ無視すれば、談合もまた同じ程度に正しくないソリューションではあるのだ。
実は、いちばん合意形成にもってゆきやすいのは「ルーズ=ルーズ」ソリューションなのである。
違う。「子供=子供/大人」ソルーションは、さらに優れている。当事者の双方が束になっても叶わないほどの強力な調停者がいる場合の合意はさらに強い。
ただし、ここで気をつけなければならないのは、その強力な調停者はあくまでも当事者たちには「勝たせなければ」ならないということだ。ここで「調停代」を召し上げようものなら、この最高のソリューションは直ちに最低のソルーションということになる。そう。調停者は少し「持ち出さなくては」ならないのだ。
これこそが、子どもたちに対して大人が取るべき態度ではないのではないか?なぜ日本の教育が破綻したと皆言うのか?大人がすでにこの「子供では太刀打ちできない調停者」として振る舞うことをやめてしまったからだ。
日本中の多くの都道府県の教育委員会と教師たちは、「政治判断によって生徒たちを救済してもらった」という大きな借りが政治家にできた。
だから、「これで教育基本法も教員免許制度も、現場の抵抗なしに乗り切れるぞ、わはは」と与党の文教族たちは満面の笑みで祝杯を挙げていることであろう。
間違いなく、今度の事件でいちばん利益を得たのは彼らである。
これはまさに、上で述べた「最高のソリューションが崩れて出来た最低のソリューション」というものである。あるいは、「三者一両得」といおうか。
有名な三者一両損の話を聞いて、以下のような対案が出てくる。
「ここでまず奉行が一両召し上げる。残った二両を二人で折半する。奉行は言うまでもなく一両を得て、残りの者も期待したより一両多く手元に残るのだから、三者一両得である」
かつては、私もこれがむしろ正しいソリューションだと思っていたことがある。少なくとも、見た目は「一両損」よりエレガントだ。
しかし、こうした仲裁のやり方では、結局奉行が焼け太るだけになってしまう。何度かこれを繰り返していれば、奉行所に行くのは損だということにいやおうにも気づく。結局仲裁者のいるメリットはなくなってしまうのだ。
だから、あの話は一両損のままの方がいいのだろう。一両は気前がよすぎだとは思うが。
それでは、仲裁者が持ち出すというソリューションは、仲裁者にとって全く利益がないのだろうか?そんなことはない。係争が減ることそのものが仲裁者にはメリットだし、そして係争を解決できるという能力が仲裁者の権威となる。要はそれをメリットと感じられる大人が少なくなったということなのだろう。そしてそれだけの余力がある大人も。
Dan the Accidental Arbitrator
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