以下の記事が痛いニュース(ノ∀`):【いじめ問題】 「いじめ悪くない。いじめるのも個性」(小6)…「いじめる方が悪い」と思う中高生は半数以下で紹介されて盛り上がっている。

livedoor ニュース - [いじめ調査]やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識
講演を聞いた大半の子は「人を死に導くものだと分かった」(公立中1年女子)と、いじめへの認識を新たにしている。ただ、ごく少数だが、こんな感想もある。「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」(公立小6年男子)

「おまえら小6に釣られすぎ」という意見もあるが、ここはあえて釣られてみよう。

いじめは個性的か?

定義から見てみよう。

苛め・虐め - 国語辞典 - livedoor 辞書
肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。

Wikipediaの定義もこれを採用している。

確かにこれを見れば、「強い」という個性の持ち主が、「弱い」という個性を苦しめるのがいじめ、ともとれる。しかし、この辞書の定義は「いじめ」の実態を正しく描写しているだろうか?

いじめは一対一ではない。一対一からはじまるいじめもあるが、その段階ではまだいじめとは言わない。その「強い」ものに付和雷同するものがつき、そして残りがそれを傍観するという構図をとってはじめてそれはいじめと呼ばれる。いじめは多対一なのだ。これは辞書にもきちんと書くべきだろう。

さすれば、「いじめる個性」というのは個性の定義にあたらないことがすぐにわかる。数を頼むのもそれを無視するのも、没個性的にならねば出来ぬことなのだから。

もしいじめが個性の発露によるものであるのなら、それが起こる現場もまた個性的となるだろう。しかし実態はどうか?学校、軍隊、刑務所....個性を発露できない場所ばかりではないか。いじめられているのは、個性そのものであり、なぜいじめを看過できないかといえば、それが個性に対する冒涜だからだ。

いじめはかくも没個性的な現象なのだ。だとしたらその解決策もそれほど個性的である必要はない。手間がかからないということではないが、少なくともいじめの個性にあわせた個性的な対策というのとは異なる。具体的な手法は以前紹介した「いじめの根を絶ち子供を守るガイド」で必要十分とすら思う。奇をてらう必要はないのだ。以前紹介したものではあるが、ここで改めて紹介する次第である。

livedoor ニュース - [いじめ調査]やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識
一方、「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。

なぜ学年が上になるほど少なくなるか、といえば、学校や親といった、いじめを抑止してくれるはずの存在が実は傍観者として振る舞うことを経験を通して学んでしまうからだろう。「個性を尊重する」という言葉がリップサービスであることとあわせて。本当に個性を尊重しているのであれば、真っ先に対策しなければならないのはいじめであるはずだ。

真性引き篭もり/entry
いじめを減らすのは簡単である。改革を行うだけで良い。
それを行わないのは国家の怠慢であり、未来に対する犯罪である。

120%同感である。が、一つ付け加えさせてもらえば、それは国家に行わせていない我々の怠慢でもあり、そして未来に対する犯罪者とは実は我々自身なのだ。いじめは多数による少数に対する犯罪であり、それもまた我々がそこから目をそむける理由の一つでもある。だからこそ、手間を惜しんではならないのだ。しかし我々は手間どころか金さえ惜しんでいる。そのことは本blogでも何度か取り上げたが、ここでは「404 Blog Not Found:平等は教育から」を紹介するにとどめる。

個性の尊重というのは、元来手間暇がかかるものなのである。「いじめるのも個性」という台詞が小学6年生にもなって出るということは、我々がいかに個性を尊重してこなかったかの証しではないのだろうか。

Dan the Accidental Bully, the Occasional Bullied, the Frequent Bystander, and the Skeptical Witness