そう。はじまりは、こんな素朴な願い。

分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント
本質的に必要なのは、みなが納得いく社会を作ることであり、
自分や自分の愛する人たちが、幸せになることですから。

しかし、これを学術的にやると、「みな」「納得」「社会」「自分」「自分の愛する人たち」「幸せ」がそれぞれ何なのかをきちんと定義づけて、はじめて「計量」が可能になる。

経済学、いや経済はこれらの定義づけにそもそも成功しているのだろうか。

私の疑問の原点は、そこにある。

まず「みな」の定義から。かつて経済では、経済を「信じる」、すなわち価格を提示され、それに見合った代金を支払うという「取引」を受け入れたもののみが対象だった。かつて奴隷は「商品」ではあっても「経済の主体」ではなく、そして今でも「人間」以外のものは「みな」の中には入っていない。

次に「納得」。「誰もが納得することなどありえない」という諦観を「みな」持っているが、それを助けるのが「取引」という行為であり、そしてそのための道具が「貨幣」だ。しかしこれもはじめから皆が納得していたわけではもちろんない。一部の人々がそれに納得し、貨幣を用いた取引を行い、それを傍目で見ていた他の人々がそれに参加し、そうして長い時間かけて「社会」は「みな」に市場経済を「納得」させた。これは実にすごいことなのだが、「経済」が「あたりまえ」になった社会に育まれた者は、それを空気のごとく当然と受け止めている。

経済学というのは、こうして我々が少しずつ手入れして築いてきた世界を、理論づけて体系化することだと私は考えている。経済があって経済学がある。経済学があって経済があるのではないのだ。これは経済学に限った話ではなく、あらゆる学がそうなのであり、この順序を守るのが学問への謙虚さだと私は結論しているのだけど、それは私の勝手な思い込みだろうか。

それで、私が発した問いは、こうである。「現在の経済学は『経済』を漏らさず網羅しているのか。網羅していないとしたら、何を取りこぼしているのか。そしてその取りこぼしを拾うにはどうしたらよいか」。

それに対して「その設問は経済学からみたらトンデモ」というのは、それこそまさに「水からの伝言」と同じ論法ではないか。むしろ、経済学にかぎらず、ありとあらゆる「学」はその研究対象からみればある程度「トンデモ」であることを強いられると見るのが正解なのではないだろうか。

現在の我々は、「水からの伝言」がガセであること、すなわち「水からの伝言」より合理的な説明が可能な理論を持っている。しかし平安時代に同じ話を持って行ったら、同様の反駁が出来るだろうか?

そして現在の経済学は、数多の(私の意見を含む)「トンデモ経済学」と比較して、どの程度合理性が高いのだろうか。少なくとも、現在の物理学ほど合理的でないのは確かだろう。いや、「現在の経済学」とひとくくりにすら出来ない。同じ「経済学」といってもミクロとマクロではてんでばらばらのことを言っているように見える。「ここまではどの経済学者に聞いても同じ答が出てくる」というものが極めて薄いのだ。

それは何も経済学者が無能といっているのではない。物理学と違って経済学には非線形の要素がずっと多い。また物理学よりはるかに「実験」も難しい。GDPの上げ下げ一つとっても、その理由をたずねるとまちまちの答が返ってくるが、これは経済学者たちがトンデモだからではなく、経済という研究対象がそれだけ難しい証拠なのだろう。少なくとも私はその程度は知っている。

それでもなお、経済学者たちは一つ大事なことを見落としているのではないかと感じざるを得ないのだ。それは、「売っても減らないものをどう扱うか」という問題に、「売って減るようにしてから売る」という答しか今のところ用意されていない--ように見える--ことだ。

それは何かというと、ずばり「人々の知恵」、あるいは経済学者が「知的財産」と呼ぶものだ。「情報」でもいい。これらの特徴は、「複製が移転よりも簡単かつ本質的」ということだ。プログラマーなら皆知っていてしかるべきことだが、情報を「移転」するには、まず「コピー」した上で「オリジナル」を「消去」しなければならない。財産(property)というのは、誰かに譲ったら自分の手元からなくなる故properだったのだが、情報はこれに当たらない。

現在のところ、このproperでないpropertyを我々がどう扱っているかというと、いったん「モノ」に「転写」することで、ある意味強引にproperにしている。例えばこのアイディアを適用すると、これだけ「費用」が節約できるから、そのうちの一部を「代金」とみなすべきとするわけだ。特許はそれを法律として実装したものと見なすことができる。あるいは人々が自分でも見てみたい絵があれば、それを「媒体」に「転写」して媒体に対して値段をつけ、あとは「市場」に載せるわけだ。著作権がこれに相当するだろう。

しかし本質的に、これらの「モノ」は物ではなく、properでもない。

その矛盾が顕在化したのが、今の我々がおかれている状況なのではないか。

そう考えているのは実は私だけではない。

Lawrence Lessig
One of the most important conclusions that can be drawn from the work of Benkler, von Hippel, Weber (my review of both is here), and many others is that the Internet has reminded us that we live not just in one economy, but at least two.

これを扱うのに、今までの「モノの経済学」だけでしのげるのですか?というのが私の抱いている疑問なのだ。少なくとも、私が関わってる open source の世界は「モノの経済学」ではうまく切れない。

私はなにも「だから今までの経済学は Fashionable Nonsense だ」と言っているつもりは毛頭ない。今までの経済学の知見は必ずそこでも活かせるはずだし、そうしなければならないはずだ。

「いや、今までの経済学でそれは充分説明が付く」というのであれば、そのポインターを示して欲しい。

それともその説明を経済学に求めるのは、単なるお門違いなのだろうか?

Dan the Complex Being