が〜ん。

子供のころに出会っていたら、もっと将棋が好きになっていたのに。

将棋は、楽しむためにある、という当たり前のことを思い出させてくれた。

将棋というと、やはり真っ先に思い浮かぶのは「羽生 善治」なのだが、羽生といわず名人などのタイトルを取った人は、むしろ凄すぎて一般人は将棋そのものよりもその人の人生訓を学ぼうとしてしまう。それはそれで面白くてためになるのだが、むしろ将棋を教わるのは畏れ多いということになってしまい、実際頂上の人が書いた一般向けの将棋本というのは以外に少ないようにも思われる。ここでいう「一般」とは、駒の動かし方から解説しているレベルの本のことである。私がおぼろげに思い出すのは、加藤一二三ぐらいだろうか。

その意味で、先崎学による将棋本というのは、素晴らしいの一言。Wikipediaによると、この御仁はA級までのぼりながらタイトルに一歩及ばず、今年はB級2組に降格してしまったそうだ。ある意味一番将棋に対して幻滅しそうな境遇なのだが、その著作を見ると実に楽しそうに将棋を教えてくれるのだ。

まず、「やりなおしの将棋」を見てびっくり。さすがにやりなおしだけあって駒の動かし方から解説しているのだけど、二歩の説明のところで「プロの対局でもたまに出現することがあります」とか、千日手や持将棋の説明のところで、「千日手や持将棋は将棋というゲームの構造上の欠陥でして」とか、将棋の欠点をさらりと述べながら、それでも「じゃあ実際にやってみよう」とやる気をそそる工夫が随所にしてある。ここまでサービス精神旺盛なルールブックは今までなかったのではないか。ちなみに私は千日手の成立条件をころっと忘れていた。

そして、知らなくて悔しかったのが、「最強の駒落ち」。私は駒落ちで将棋をやったことは実はない。だからいつも勝負は圧勝か惨敗。後者の方が多かったように思える。駒落ちを知っていれば、もっと接戦になって、ますます面白かったはずなのだ。

コンピューターゲームの世界には、「ゲームバランス」という言葉がある。あらゆるゲームの中で、一番重要なのがこれで、簡単すぎればつまらないし、難しすぎれば面白くない。将棋というのはルールが単純ゆえ強弱がはっきり見えるので、それですぐ飽きてしまう場合も多いのだが、なるほど、駒落ちという手があるではないか。

「最強の駒落ち」 p.16
 さて、まずは八枚落ちである。
 「なに、八枚落ち?馬鹿にするな」といってはいけない。もし、あなたの身近な人が、今から将棋を覚えたい、もしくは駒の動かし方を知って指してみたいと言い出したらどうするだろうか。
 決してしてはいけないのは、その時いきなり平手で指してこっぱみじんにしてしまうことである。相手が女性であればこれはもう犯罪と言ってもいい。しかも勝ったあとに「もっと勉強して出直して来な」などという輩は死刑をもって処すべきであろう。

これは将棋に限ったことではない。プログラミングから科学からおよそ頭を使って勝負する世界の入口で必ず経験することである。「手加減の技術」というのは、もっと見直されてもいいのではないか。

しかし、手加減というのは真剣勝負よりさらに一段上の技術が必要だというのも「最強の駒落ち」を読んだ実感で、これもまた他の世界に通じることである。駒落ちの上手というのは、平手でよく知られた定石が使えない。それだけでも大変で、それがゆえに普通の人どおしが駒落ちで指すということがあまりないのだとも思うのだけど、しかし駒落ちにも定石はあり、それらを知ることで将棋の強弱をスケールできるというのは、プロにとっては当たり前なのかも知れないが、素人の私からは目から鱗があかすりのあかのようにおちまくりんぐなのであった。

確かに将棋は将棋以上に役に立つ。真剣勝負でも手加減でも。

Dan the Amateur Kishi