これは、むしろ「非効率」とみなすより、「効率性そのものを確保するためのコスト」と見なすべきなのかも知れない。

地方(≠痴呆)にいるけど賢くなりたい経済学教員 - 教養の経済学でもわかる貧困と市場の問題
理想的なのは、効率性をみたしながら、Aさんの所得が飢餓状態以上の状態、つまり、曲線上かつ、直線lより左側にくることである。しかし、市場経済の状態をいじる政策は効率性を損なう可能性高い。たとえば、次郎さんに所得税を課して、太郎さんの所得を飢餓水準以上にしようとしたとしよう。所得税は勤労意欲をそこない、効率性はみなされなくなる。つまり、太郎さんは所得はふえるが、経済は効率性の満たされない曲線の内側にくる。しかし、これは許容すべき非効率性であると私は感じる。
fujixeの日記 - 豊かさの誕生
この問いに対する本書の答えは簡潔である。次の四要素が全て揃ったとき、経済成長が始まる。一つでもかけていてはダメだ。
  • 私有財産権
  • 科学的合理主義
  • 資本市場
  • 輸送と通信の進歩

豊かさの誕生」は未読なのだけど、これらが成立してはじめて効率的な市場が運営できるというのは納得が行く所だと思う。私有財産権の確保には、安定した政府が必要で、科学的合理主義には教育が必要。そして輸送と通信の進歩があってはじめて資本市場がまわりだす。

これらは相互に関連しているのでどれがどれより重要だということはないのだけど、各国の発展を見れば、だいたいどんな順番で発展させていけばいいのかはわかる。

まず最初になされるべきは、輸送と通信。80億人分の食料があっても飢餓がなくならないのは、これが一番の原因だ。先進国の余剰は届かないというより届けようがないのである。

次に必要になってくるのが、科学的合理主義。これには教育が必要で、その原資は輸送と通信によって得られる。

これで、効率的な輸送と通信、そして効率性に理解を示す市民が出来て、はじめて私有財産権をを尊重すうだけの余裕が生まれる。隣の青い芝生に自分の家畜を放牧せずにすますには、自分が飢えていないことが肝要だからだ。また、私有財産権が確保されていない状況では、お隣は自分で芝生を塀で囲むなどの自衛手段を取るしかない。

これだけ揃ってはじめて資本市場が生きてくる。隣の青い芝生が余っているなら、今度は正々堂々と代価を払った上で自分の家畜にそれを食わせればいい。しかし重要なのは、市場に出せるのは結局のところ余剰分だけということ。一旦資本市場が確保されると、余剰分だけではなく必要分も貨幣としてストックできるため勘違いしてしまいがちなのだが、もともと我々が効率的に流通させたいものはあくまで余剰分なのだ。

結局のところ、効率性というのは衣食が足りてから初めて学ぶことができる礼節なのではないだろうか。

実際のところ、先進国においてさえ、効率的に取引されているものは意外と少ない。株、債券、為替といった金融商品がそれに当たるが、その他のほとんどの物を我々は非効率に買っている。それほど効率性がエッセンシャルなら、なぜ我々はほとんどのものを定価で買って平然としていられるのだろう?

もちろん経済学的には、「定価には『定価で買うことが出来るオプション料』が含まれている」という言い方が出来るだろう。しかし、我々はものを買う時にそれを意識しているかといえばそれは違う。もし我々の全てが「経済人」となったら、実際には経済はまわらなくなってしまうのではないか?

「効率的市場」という場合に私が一番違和感を感じるのは、その市場そのものを運営するためのコストがどこにも登場しないことだ。しかしこれは無料じゃないことは明らかで、そして誰が運営しているかといえば市民であり政府である。累進課税というのは、その点において正当化される考えだと思う。市場からもっとも多くを享受している者が、もっとも多くの費用を負担すべきだというわけだ。

とはいえ、それが収入の7割とか9割ともなると、さすがに「つきあいきれない」となるだろう。フローに関して言えば、Maxは5割であろう。「自分の才覚のおかげ」が「市場のおかげ」を上回らないと、やはりやる気は出ない。しかし、実際Max5割では、社会保障まで含めると今の先進国ではほとんど赤字になってしまう。

だから、ストックの課税が重要になってくる。それも生きている間であればまだ「逆風時のためのバッファー」とか「年金の原資」といういいわけも成り立つが、死ぬまでストックしているのは明らかに「非効率」なのだから。

話を元に戻すと、効率性というのは経済に限らず、Version 2.0になってから考えるべきことながらなのだと思う。まず大事なのは「それが動く(work)」こと。これはものづくりでもプログラミングでも変わらない。そして多分経済も。

Dan the Economic Animal