そういえばはてなから引っ越されていたのですね。noon75さん。
言葉の汚さについて (セックスなんてくそくらえ)ブログに「汚い」言葉を堂々と持ち込んだセックスブロガーnoon75である僕は、たとえばブロゴスフィアで散見される露悪的な表現、人の感情を逆撫でする目的で書かれた、いわゆる煽りのための文章というものは、実に幼稚で、書き手の品性の欠如を哀れなまでに露呈させてしまう、失笑と苦笑の対象でしかない、と思うわけであるが
さて、僕の書く言葉、たとえば「まんこ」や「セックス」や「射精」が汚い言葉であるという批判が、僕がブログ「セックスなんてくそくらえ」を始めたときから存在しているわけで、ここで考えなければいけないのは、そもそも汚い言葉というものが存在しているのか、という疑問であり、逆にいえばまんこほど美しい言葉が他にあるのか、と僕は問いたいのである。
けだし同感。言葉に貴賤なし。
ただし、貴賤はなくとも、強弱はある。そして強い言葉というのは得てして汚い言葉として認識される。私はそれほど多くの言語を知っているわけではないけど、それでもまだこの原則に対する例外を見聞きしたことはない。
「ちんこ」や「まんこ」が「汚い」のは、それがどれだけ強い言葉であるかの証しでもある。そしてどんな言葉もそうだが、使われれば使われるほど我々の感覚は麻痺し、そして言葉はそれが本来持っていた強さを失う。
だから、私は「強くて美しい言葉」をあえて「汚い言葉」とラベルするのは必ずしも「卑劣で陳腐なすり替え」だとは思わない。あえてそうラベルすることでその言葉の持つ強さを大事に使うという側面があることを否定できないからだ。
文化によっては、神に子供を持って行かれないように、大切な子供にあえて「汚い」名前をつけることがある。かつての日本もそうだったようだ。「まろ」というのも「糞をまる」から来ているそうで、やんごとなき人々は「おまる」だったわけだ。このあたりのいきさつは404 Blog Not Found:ウンコで学べ!でも紹介した「ウンコに学べ!」にも詳しいので改めて紹介させていただくが、本題に戻ると、我々はちんこやまんこがいとおしいからこそ、それをあえて汚い言葉とラベルしておくのではないだろうか。
大事なのは言葉が汚いかどうかではなく、その言葉が指し示すものなのだから、実は「汚いのは言葉ではなく、あなたのその下卑たまなざしである」というまなざしもまだまんこの美しさを活かし切っていないように思われてならない。
私にとっては、「まんこ」はあまりに強く美しいものであるが故に、惜しんで使いたい言葉なのである。世阿弥もいうとおり、「秘すれば花」なのだから。
もっとも、いくら強い言葉でも、ときどきご開帳してあげないと腐ってしまうというのもまた事実。その意味ではnoon75さんのご開帳ぶりは、blogosphereを通してみればちょうどいいバランスで、私自身は不快に感じたことは全くない。
「ちんこ」「まんこ」「うんこ」は子供が好きな三大言葉で、これを時々子どもたちの無垢の象徴という人がいる。しかしこれは事実の半分しか指摘していない。子どもたちは穢れてもいないが美しいものも知らないのだから。
Dan the SOB
追記:8歳になった上の娘は、食事のときにこんなことをのたまった。
ねえ、食事中だから尿って言わせてもらうけど
わかってるんだかわかってないんだか。
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