一回では答えきれないentryなので、数回に分けることにする。まずはこちらから。

分裂勘違い君劇場 - 「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事
一方で、「私は彼らの作った(かも知れない)車に乗っている」という理由で、「その車に対して支払った金額以上の敬意を、期間工に対して持つのが当然だ」とする論調も、論理的におかしい。

これは「論理的に考えれば」というより、「実経済学的には」ということだと思う。

確かに私がToyota Priusに対して支払った300万弱には、それを作るのに関わった全ての人々の全ての労力に対する代価が含まれているべきで、「ありがとう」という理由は経済学的には存在しない。トヨタは黙って私にPriusを渡し、私は黙って代金を支払いさえすればいいからだ。実際株の売買において、約定したときに感謝の気持ちを特定の誰かに抱くだろうか。

それでも、私はそれが売り物となることを可能にしてくれた人々に「ありがとう」ということがおかしいとは思わない。なぜなら、プライシング、すなわちそれがいくらで売買されるべきかというのは難解な経済学の問題だが、実際に取引に応じるかは実は単純な心理学の問題だからだ。

経済学は、その取引が損か得かは教えてくれる。しかしその取引に応じるべきかどうかを決めるのは、結局のところ売り手であり買い手なのだ。「スマイル」も「まいどあり」も、実経済では0円、ということになっているが、それがあるのとないのとでは取引の約定率が格段に違うのだ。

これを今までの経済学では、「いや、実はスマイルは0円ではなく、プロモーション費用としてマクドナルドが店員に支払っており、それは価格に反映されているはずだ」と扱ってきたように思う。しかし「じゃあスマイルの本当の価格はいくら?」と言うと、誰も答えられない。

そうではなく、それは虚の経済で決済されているのではないか、というのが私の仮説で、実は取引というのは実虚双方の「値段」が折り合って初めて成立するのではないかと思っているのだ。

実は、「虚価格」を0にする方法というのが一つある。取引相手を互いに分からなくする方法だ。これであれば、誰にスマイルすればいいのか、誰にまいどありがとうございましたといえばいいのかわからなくなるのだから、「虚取引」そのものが成立しない。だから取引に対しては、実だけに集中すればいい。金融市場がまさにそうなっていて、金融市場の効率性の高さは虚を取り除いたことも起因していると思う。

しかし、実は取引相手が完全匿名という売買というのは、実生活においてはそれほどない。また売買だけで完了をきちんと宣言できる取引も非常に少ない。Priusに欠陥があれば、当然私は文句をつけにいく。どこへ?トヨタに決まっている。そしてトヨタにつけたクレームは、社内を回った末に期間工の元に届きうる。トヨタのことだから、私のPriusのどこを誰が作ったのかをトレースする能力はかなり高いだろう。食べたらなくなってしまう食べ物ですら、食中毒でも起こしようなら確実に「トレース」される。

それであれば、とりあえず「ありがとう」といっておいてもいいではないか。たとえそれが「論理的に」誤っていようとも、こちらの財布には一切響かないのだから。

それにしても、虚を決済しているはずの金融市場こそ「実的」で、実を決済しているはずの「一般市場」こそ「虚的」というのは面白いパラドックスではないか。

駄文につきあっていただいてありがとうございました。

Dan the Complex Being