レジデント初期研修用資料: 「話が見える」ためには記憶の想起が必要な件」を読んで思い出したのが、書かなきゃ書かなくてはと思っていていつも「忘れる」、というより「あとで書く」モードになっている話。

記憶に関する問題では、忘れるのが悪、覚えているのが前とされるのだけど、電脳とつきあっていると、むしろ「忘れる」方こそより高い技術が要求されるのだということに嫌でも気づかされる。

その根本は、本blogで何度も繰り返してきた、「(デジタル)情報においては、複製は移動よりも簡単である」ということにある。例えば、ファイルを「忘れる」、すなわち「削除する」ことを考えてみよう。

ファイルdanを削除する例

消去前
Kogai Folder:               
  dan   → dan の内容
  naomi → naomi の内容
  ...
消去後
Kogai Folder:
  ***      dan の内容
  naomi → naomi の内容
  ...

すでにご存じの人も多いように、この場合ファイルは「消された」わけではない。実際に消されるのは、ディレクトリー(フォルダー)にあるそのファイルへのリンクと、そのファイルの参照カウンター(link)だけだ。ファイルの内容は消えずにそのまま残っている。だから"undelete"できる。図に書くと右のとおりとなる。

Unixでは、システムコールもこれを意識した名前になっていて、コマンド名こそremoveを省略したrmだが、システムコールはunlink()である。

実装はファイルシステムによって多少は異なるが、重要なのは、この場合消しているのは参照=ポインターだけだということだ。だからDVDのイメージのような4GBを超えるようなファイルでも、一瞬にして「削除」することが出来る。もしこれが「あとかたもなく、あとで復活しようがないように消す」だったらどうだろう。この場合は0とかランダムなビット列で内容を「上書き」することになる。かかる時間もファイルを複製するのと同じぐらいかかる。

我々の記憶の仕組みも、これに似ている。忘れるというのは記憶が消去されているのではなく、ただその内容へのリンクが切ってあるだけのようなのだ。だから、人を思い出すのに、「名前」というリンクではたどりつけなくても「症例」とか「事例」とかでたどりつけたりする。

そして人間の場合は、記憶の上書きというのが可能なのかどうかがそもそも分からない。電脳では少なくとも記憶という記憶には番地がふってあって、そこに書き込むことで「上書き消去」が可能なのだが、人間の記憶はそういう仕組みでないことだけは確かだ。

しかしそもそも電脳の場合は「上書き」が出来るようになっているかといえば、記憶容量が少なかったため、記憶領域を再利用するためだ。もし記憶容量に制限がなければ、そもそも上書きの必要そのものがなくなる。実際電脳においても記憶容量が格段に増えたため、「消すことを前提としない運用」というのが徐々に増えつつある。代表的なものはGMailだろう。2GBというのはたいていの用途においては「充分無制限」というわけだ(私の場合そうも行かないのだけど)。

しかし、記憶容量無制限の世界においても、「忘却」、すなわち「思い出しにくくするないし思い出せないようにする」は必要なようだ。それがなぜかというと、ある記憶にたどり着くためのコスト、すなわち思い出すまでに要する時間は有限だからだ。それであれば、より頻繁に参照される記憶のポインターをアクセスしやすい位置に移動したり参照カウンターを増やしたり、そうでない記憶のポインターはアクセスしにくい位置に移動したり参照カウンターを減らしたりといった「再配置」した方がいいだろう。

「覚える」も「忘れる」も、実はこの「記憶ポインターの最適化」に過ぎないのではないか。

♪年を取るのは素敵なことです
♪そうじゃないですか
♪忘れっぽいのは素敵なことです
♪そうじゃないですか
♪悲しい記憶の数ばかり 飽和の量より増えたなら
♪忘れるより他ないじゃありませんか
-- 傾斜/中島みゆき

この歌が皮肉ではなく真実に聞こえるようになってからどれくらいが経つのだろう。


Dan the Amnesiac