弾@監禁中です
404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある - 初学者Kさんのコメントうーん、これだけ反響があった以上、もう一段説明を加えないと、弾さん自身が
>説明責任を充分全うしていない
ような気がする。
それも想定の範囲内ということで説明。
結局のところ、私の言いたい事は、タイトルの通りということ。
檜山正幸のキマイラ飼育記 - 科学はあなたを救ってくれない通常科学の主たる仕事は、この現象世界に対して整合的で経済的(できるだけ単純)な説明を与え、できるだけ包括的かつ正確な予測手段を提供することです。
おっしゃる通りです。ご高説、ごもっとも。
そしてその包括的かつ正確な予測手段を担保しているのは、実験です。
しかし、数多の科学的な見地のうち、実際に自分で検証できるものは限られています。科学者でさえ、一歩自分の専門領域を離れてしまえば、他の科学者の論文を「信じる」しかありません。例えば、光速不変を信じるために、自らマイケルソン・モーリの実験をしてみた人はどれくらいいるのでしょうか?
もし科学的にしか物事を「信じる」ことが出来ないのであれば、ある理論の説明を信じる資格があるのは、それを実験で自ら確かめた人だけ、ということになります。「信じる」にあたってはそれが理想ですが、物事の判断に必要な理論をすべて自ら検証するほど我々の人生は長くありません。
その代わり我々がとった手段というのは、自ら検証する代わりに、それを検証した人々を「信じる」というやり方でした。アインシュタインの理論が広く「信じられている」のは、それを信じている人々が自ら実験したためではなく、まず実験した科学者たちを他の科学者たちがそれを「信じ」、それを見た人々が「彼らがアインシュタインを信じるなら私も信じる」という信用連鎖が起こった結果です。
そうやって信用連鎖により信用が確立された人は、次からは「その人が言った」という理由だけで信じられるようになります。これは科学者たちとて同様です。さもなければ「論文捏造」のようなケースは起こらないでしょう。なぜ科学者たちがヘンドリック・シェーンを信じたかといえば、彼の上司 -- バトログ -- にすでに信用があったからです。
そして、なぜエセ科学が蔓延するかといえば、我々の信用システムが、「実証を信じる」ではなく「人を信じる」からだからに他なりません。裏を返せば、エセ科学は我々がいかに科学を信用するようになったかという証しでもあります。
問題は、それが「人を安易に信じるな」という結論に短絡してしまうことです。それは人々が他人を信じる理由を無視しています。なぜ人々は他人を信じるか?自ら検証するのが通常あまりに高コストだからです。
プログラムの世界で言えば、自分でフルスクラッチで書くのか、他者が作ったモジュールを使うかという違いといえます。「○×を信じるな」という人々は、本blogを見るにあたってブートローダーからブラウザーまで自作しているのでしょうか?
私が「きしょい」のを承知で「ここまでなら信じてもよさげリスト」なるものを提案した理由は、要は「このモジュールにはバグがある」というのではなく、「もっと安全で高性能なモジュールがあるよ」という提案の方が人々に受け入れられるのではないかということです。一昔前ならとにかく、今ではモジュールは機能を実装しただけでは受けいられず、それがどんな機能を持ち、その機能にどうアクセスしたかまで書かねば使ってくれません。科学にもそれは言えないのではないでしょうか?
人のモジュールを使う、それも検証なしに使うのは、手抜きであり思考停止です。それは間違いありません。しかしそれなしにやっていくには、世の中はすでに複雑過ぎ忙しすぎるのです。
それに、思考停止はあくまで「停止」であって「終止」ではありません。気に食わなければ「あとで検証する」「あとでリファクターする」タグをつけておいて、暇な時に腰を据えて検証するなりリファクターすればいいのです。
「なぜそうなるのか」を考える余裕は、いつもあるとは限らないのです。ましてや科学者たちの伝言より「水からの伝言」に耳を傾ける人々はそうでしょう。もし科学者たちが、「水からの伝言」ではなく自らの伝言を人々に伝えたいと欲するのであれば、やはり伝言のやりかたにはもう一工夫必要なのではないしょうか。
Dan the (Not So) Skeptic
箸の持ち方や言葉遣いに、どのような科学的根拠があるというですか。そんなものないでしょう。
科学的根拠はないけれども、身に付けておくべきだと教育者が思うことを仕込むのが、道徳やしつけなのではないのでしょうか。