♪Espionage 悲しきさだめ
♪Espionage いつかは異国の土になる

とアリスに歌われたスパイは、まだ異国の土になれただけましだったのかも知れない。

それさえ許されず、自国の塀の中の人となったのが佐藤優だ。

本書は、「国民の罠」の佐藤優が、「ウルトラ・ダラー」の手嶋龍一と対談した本である。それだけでもう「買い」であり、

My Life Between Silicon Valley and Japan - インテリジェンス 武器なき戦争
「インテリジェンス 武器なき戦争」(手嶋龍一・佐藤優共著)が面白い。著者二人が語り合う全編が刺激に満ちている。

というのは本当だが、そもそも佐藤氏が刺激的な対談をしている現状そのものに、私は不安を覚えずにはいられない。本来であれば、佐藤氏がしなければならないのは刺激的な対談を大衆に提供することではなく、冷徹な分析を為政者に届けることなのだから。

佐藤氏は本書で認めているとおり、もはやこの国のintelligenceの役には立たない。衆人に知られてしまった諜報官は、海上の潜水艦と同じだ。彼がこうして対談していられるのも、彼が「終わってしまった」人だからだ。そしてその彼を終わらせたのは、彼に任務を与えたはずの国であった。

その佐藤氏は、その国に恨み言を言うのでもなく、他国に亡命するのでもなく(彼にはその資格があるだろうし、彼を受け入れる国もあるだろう)、それどころかそれが一番国のためになるという信念の元、獄中の人となる--そして、それを「国家の罠」として出版した。これほど凄い復讐があるだろうか。

外務省の恥部を「吐いて」しまうのは、彼のプライドが許さない。さりとて彼に生き甲斐を与えておきながら、「たかが」自分たちの立場のために不当にそれを取り上げたこの国にたいし、「臣臣たれど臣たらぬ」とばかりにされるがままということにも耐えられない。「国家の罠」は、まさに佐藤氏にしか出来ない「復讐」だった。

「復讐」といっても、佐藤氏のそれは相手を完膚無きまで叩きのめすことではない。また、それで溜飲を下げる程度の人物であったのだとしたら、佐藤氏は大した人物ではない。彼がしようとしたのは、叩きのめすのではなく叩き直すということなのだから。

そう。佐藤氏にも私利私欲はある。「この国のためなら、異国の土になるのも厭わない」という私欲が。これは、実に大きな欲なのだ。これに比べたら、ストックオプションで億万長者などというのはパーティーの出し物のビンゴ程度にしか見えないほどの。

こういう「大欲」を持った人に、居場所がないというのは、世の平和のためには大変よろしくない。古来日本ではこういう人たちを「鎮めて」いた。大国主から菅原道真まで。このあたりは「逆説の日本史」に詳しい。しかしこの「麗しき」(?)伝統は、近代になってからはほとんど発揮されていない。笑われるかも知れないが、私は佐藤氏が「怨霊」とならないかを懸念している。彼にはそれだけの「大欲」と、それを裏打ちするだけの知力(knowledge)、いや諜力(intelligence)があるのだから。

もっとも、佐藤氏には、カリズマ(charisma)がない。それが、彼を導火線なき火薬としている。彼が最も危険な存在となるのは、その彼がカリズマと結びついた時だろう。彼にとってのカリズマは、かつては鈴木宗男氏だった。鈴木氏の是非はさておき、佐藤氏のような存在は、カリズマを必要としている。異国の土となるときに、それが自国の糧となることを証明してくれる存在として。

それこそが、佐藤氏にとっての報酬なのだから。

ただ今のところ安心できるのは、佐藤氏の新カリズマが不在なことに加えて、佐藤氏が実は素朴に日本を愛していること。彼の取ってきた行動を表層的になぞれば、そのどこが素朴かと思われるかもしれないが、彼がこうしてこの国で本を執筆し対談していることそのものが、その気持ちの発露に私には思われる。もし彼が本気で、括弧抜きの復讐をしようとしたら、もっと「こわい考え」はいくらでも思いつくのだ。

手嶋氏が提唱する、School of Intelligenceというのは、その佐藤氏の居場所となりうるのだろうか。

そんなことを考えさせられる、刺激を愉しむにはあまりに刺激的な一冊。もし年末年始をゆるりと過ごしたいのであれば、本書はむしろ避けた方がよいかもしれない。

Dan the Worst Person to Be a Spy