問題の核心が、ここにある。

檜山正幸のキマイラ飼育記 - ニセ科学は「バグのあるモジュール」なんかじゃない
このプログラミングの比喩をそのまま使い続けて話すなら、しょうもないニセ科学(「しょうもない」の定義は「通常科学と真性ニセ科学の両立不可能性 その2 」を参照)は、「バグがあるモジュール」なんてもんじゃないのです!

そうであればと私も願うのだけど、現実は違う。

ニセ科学の一番の問題は、それをリンカーがパスしてしまうことだからだ。

リンカーとは、他でもない我々のことだ。

確かに檜山さんや私であれば、リンクの段階で「シンボルエラー」ではねるだろう。しかし、「サイレントマジョリティー」はそうではない。

そもそもコンパイラ(あるいはパーザー)も通らないデタラメ。それを「バグがあるモジュール」なんて言うから、「バグを修正すればいい」「他の、より完成度が高いモジュールで置き換えればいい」なんてトンチンカンな議論が出てきてしまうわけ。(詳しくは、「通常科学と真性ニセ科学の両立不可能性について」参照。)

問題は、それをコンパイルする人もリンクする人も、そのほとんどは科学者ではない、ということなのだ。いや、科学者たちですら「非科学的モジュール」をリンクしている人々はたくさんいる。たとえば宗教モジュールなど。

そしてそのモジュールが社会的地位を一旦確保してしまえば、そのモジュールの正統性を問う事そのものが反社会的行為となってしまう。ブルーノはそうやって火あぶりにされて、ガリレオはそうやって折伏された。

なぜ「反エセ科学キャンペーン」を張る人々は、返す刀で「反宗教キャンペーン」をやらないかという理由がそこにある。彼らとて「反社会的」(antisocial)という烙印は怖いのだ。どの学会が、日本で最も強力なあの「学会」を折伏しようとしたのだろうか。

そうであるが故に、私には反エセ科学キャンペーンも一種の弱いものいじめに見えてしまうのだ。少なくとも「水伝」を非難するのであれば、それ以上の非難が「学会」に向かってもよいと思われてならない。もっともそう文部科学副大臣に向かって言える人がどれだけいるかは疑問だが。別に「水伝」を弁護するわけではないが、もし「水伝」の主張が血液型姓名判断なみに「権威」を確保してしまったら、これほどゲーム脳天気に批判できたのだろうか。

結局この状況を変えるには、科学もまた権威になるしかないのだろうか。

Albert Einstein - Wikiquote
To punish me for my contempt of authority, Fate has made me an authority myself.

もちろん権威になりつつあるからエセ科学が秋波を送るのでもあるのだけど。

それでも私が科学の方が「マシ」だと思っている理由は、数ある教義の中で、これだけが自己デバッグを教義に盛り込んでいるからだ。他はデバッグそのものが禁止ではないか。要するに、科学は誤認に優しいのだ。誤理論憎んで人憎まずが、科学がとっている立場のはずである。科学者の間でもこれが出来ていない人は少なくないのだけど。

その代わり、不誠実に対しては実に厳しい。人々が科学に恐れを成すのは、この不誠実に対する厳しさもあるのだろう。かくして科学者というのは敬して遠ざけるべき人々になってしまうのだが、それは実に淋しい事だ。

だから、ニセ科学の易しさに対して、科学は優しさで対抗してもいいと思うのだが。

Dan the Hypocrite -- Like the Rest of You

折伏