「信じるも信じないも個人の自由」から、抜けている視点が一つある。

煩悩是道場 - 科学的根拠が無いものを信じてはならないのか
世の中は、科学で全てが証明出来る程、簡単には出来ていないと思うのですけれど、どうなのでしょう。疑似科学的なものを信じる信じないも個人の自由じゃないんですかね。それじゃ駄目なんですかね。

騙された場合に、そのコストを誰が支払うか、という問題だ。

もし「信じるも信じないも個人の自由」を全面的によし、とすると、やはり「騙された時のコストは、信じたものが全て支払うべき」だとなるのではないか。当然詐欺罪というのも成立しないし、名誉毀損などとんでもない、ということになる。「信じるも信じないも個人の自由」を標榜する人は、「騙された場合も他者を一切責めません」という旨も同時に表明しておくべきなのではないか。

実際のところ、我々は「信じるも信じないも個人の自由」を担保できるほど余裕があるわけでもないし、かといって「私に騙されたらそのコストは一切言った私が負担します」を担保できるほどの余裕もない。結局の所、ある言説を受け取ったらそれをどれだけ信じるか、逆にある言説を発したらそれにどれだけの保証を与えるかというのは「時価」ということになる。

その大まかな方法というのは、「騙された場合の損失補填は、信用形成に支払ったコストに応じる」というものだ。当然簡単に信じてしまった場合はほとんど保証はされないし、言説を発した側がニセ情報を流して、信じるつもりがない人々まで信じさせた場合は逆に言説を発した側に請求書が回る。

そして、現在においては、リーチが大きなメディアほど、そのメディアに掲載するためのコストが高い、ということになっている。2chよりもblog(同じ無料でも方やステハン、方やコテハンないし実名というのでコスト差が生じる)、blogよりもプレスリリース、プレスリリースよりも一般報道、同じ一般報道でも新聞よりTVという順番で発信者側のコストが増大する以上、騙した場合の損失補填もそれに準ずるべきというのは当然だと思われる。

そこでは、根拠が科学的かどうかというのはあまり関係ない。科学的な言説でも、コストゆえに言説を「丸める」ことはよくあることだ。例えば我々はニュートン力学より相対論の方が現実に即していることを知っているが、工学的な設計はほとんどニュートン力学の範囲で「間に合って」いる。もちろんGPSの原子時計など、すでにニュートン力学でも「足りない」部分というのはきちんと相対論を考慮して設計するのであるが、我々が日常的に利用している「魔法」のほとんどは「古い魔法」で充分間に合っているのだ。我々が日頃求めているのは、非の打ち所がない説ではない。非があっても益が充分のる説なのである。

結局信じるも信じないもコスト感覚の問題と言ってしまえばそれまでだが、それでは「毒にも薬にもならない言説」というのは、発信者受信者双方ともコスト負担が可能という点においてOKなのだろうか?少なくとも血液型性格判断に関しては、私はNOだと思う。

なぜなら、血液型性格判断においては、信用コストの分散がフェアでないからだ。AB型はどう考えても不利になる。いくら性格判断の内容をマイルドにしたところで、AB型がマイノリティである以上、そのしわよせは確実にAB型に来ることになる。はっきり言ってこれは人種差別ではないか。もっとも日本という国は人種差別を放置するコストが低い国なのかも知れないが、他者からアンフェアだと受け取られるのは、どう考えても甘受できるコストだとは思えない。

さらに、「毒にも薬にもならない」ことそのものが、「その言説を流す」ことを免罪するかといえば、コストまで考慮するとやはりそうはならない。TVというのは、「薬にしなければ割があわないほど高額なメディア」ではなかったのだろうか?

イワシの頭を信じるのはあなたの自由だが、イワシの頭代をわたしにつけまわすのはご遠慮願いたい、ということなのだ。ましてやそれが、税金化されるであろうNHKの受信料だの、すでに税金によってなされている公的研究であれば、信用コストは強制前払いなのだから、騙した場合のコスト負担も発信者の強制負担というのは当然のことではないだろうか。

Dan the More Economic Animal than Scientific