それで、本来はいいはずなのである。

小野和俊のブログ:金をつくるのか、富をつくるのか、それが問題だ
企業で活動していると陥ってしまいやすいのが、ボランティアではなく、利潤追求団体として企業という前提のもとに、自分たちの活動の方針を決める際に、それが富をうみだすのかどうかという視点を忘れて、金になるのかどうかということばかりを考えてしまうことである。

なぜなら、富は持ち主にしか価値がないが、金は億人に価値があるからである。

小野和俊のブログ:金をつくるのか、富をつくるのか、それが問題だ
ここでいう富とは、ポール・グレアムが「ハッカーと画家」で言っているような、人に何らかの幸福感を与えるものすべてである。例えばそこには祖母の肩叩きをすることも含まれるし、大切な人のために料理に腕を振るうことも含まれるし、困っている顧客にアドバイスをすることも含まれる。学術的な発明や発見も含まれるし、道に困っている人に行き方を教えてあげることも含まれるだろう。

これに習って金の方も定義しておこう。金とは、第三者にとっても価値を有する富のことである。例えば祖母の肩たたきというのは、孫と祖母にとっては価値を有する富ではあっても、赤の他人に対しては何ら価値を持たないので金ではない。

なぜ我々が「法人」なるものを発明し、それを保護するための法を整備したかといえば、富を「金化」するためといっても過言ではない。祖母の肩しか叩かないのであれば、孫は祖母にしか価値がないが、代価をうけとることによって祖母以外の肩もたたくことにすれば、それは金になる。しかし、孫だけしか肩を叩くものがいなければ、肩をたたくという価値をそこで継続して提供することは難しい。他にも肩たたき要員を確保するというのは当然のなりゆきというものだろう。こうして「孫と祖母」は「会社と顧客」になったわけだ。

このように、法人というのは「まだ価値を提供していない人々に価値を提供する」、すなわち「価値の公化」があってはじめて価値を発揮する。当然その正否を吟味するには、公的に理解可能な価値が必要で、それが金である。それが金である以上、「金になるのかどうかということばかりを考えてしまう」のは当然のことである。それがわからぬ人が株式を公開するのは犯罪である。商法や会社法の行間に書いてあることは、そういうことである。

しかし、富と金の間には、本当に何もないのだろうか。第三者にとっても価値を有する富は、どの第三者にとっても価値を有する必要があるのだろうか。

ソーシャルブックマーク(SBM)というのは、その中間がありうることの一つの証拠とも見なせる。ある記事のブックマークが、少なくともその記事を書いた者とブックマークをした者の双方に価値があることは疑いない。そしてそのブックマークをただ眺めた者にとっても価値があることも疑いない。よってSBMは第三者的価値を有する。しかしそれが誰にとっても価値を有するかといえばそんなことはない。 「億人にとっては価値はないが、万人にとっては価値を持ち得るもの」が確かにここにあるのだ。

もちろん、それを一端「金化」して、需要者に対して供給者が代価を受け取るというモデルはありうるし、そういう試みもいくつかある。はてな自体、その発祥は人力検索である。しかし、こちらがSBMほど人気がないのは明らかだ。なぜかといいえば、「金化」そのものにコストが発生するからである。いちいちある富に値段を付けるのはしごく面倒なことであり、それに見合った売り上げが上がらなければそのサービスは自然消滅する。SBMというのは、「金化」するにはあまりに「売れない」し、一つのブックマークの富の共有者が数人から数百人であれば、それを億人に流通可能な状態にするまでもないのだ。

「物々交換2.0」とでも言おうか。

こうした「他の誰かにとって価値はあるけど、しかし売上げが立つ見込みがない」ものを流通させる仕組みというのはかつてはなかった。1,2,3の次はいきなり無限大だったのだ。しかし、チープ革命が、そんな「富以上、金未満」のものの流通をある程度可能にした。「売れぬなら配ってしまえブックマーク」といったところである。

とはいえ、これらの「富以上、金未満」の流通基盤はチープとはいってもフリーではない。今のところは金は他で作り、「片手間」でそれを維持するという(i.e.はてな)か、「金化」を標榜するか(i.e. mixi)の二通りしかない。もう少しうまいやり方はないものだろうか。

Dan the Priceless