生きていくのは簡単だ。ノンキになるのが難しい。

平野啓一郎公式ブログ - 巧みに生きるか、善く生きるか、……
巧みに生きる、ということについて言えば、梅田さんがいみじくも「サバイブする」という言葉で表現したように、今の社会は、ノンキに関わって生きていこうとするためには、複雑になりすぎているんだと思います。ITに関してもそうだし、経済にしてもそう。もちろん、対人関係も。

世の中は確かに複雑になったが、それは世の中が巧みになったということでもある。おかげで、生きていくために習得しなければならない技能というのは確実に減った。炊事はレンジでチン、それすら面倒ならコンビニがある。洗濯は全自動でポン、それすら面倒ならクリーニング屋がある。これらすら面倒でも、親が健在ならずっとニートでいられるかも知れない。

その一方で、コンビニの店長は休みもままならない。全自動洗濯機を設計するには受験戦争に勝ち残り、就職戦争に勝ち残り、就職してもずっと下積みを経てしかるべき立場に立たなければならない。

世の中がユーザーフレンドリーになればなるほど、プロバイダーとなるために要求される巧みさは増していく。コンビニの商品を買うのと作るのとでは、天と地ほどの違いがあるのだ。

「巧く生きる」というのは、いわば「巧く地を這う」ことだとも言える。かつてはこれだけが天に至る道だった。地を這っているうちに、須弥山の麓にいたり、それをよじ上るというわけである。

しかし、はじめから天にいる人たちは、いったいどこへ昇ればいいというのだろう。

My Life Between Silicon Valley and Japan
若い人たちを見ていて僕はいつも、とにかく生きのびてくれよ、とんでもないことも色々あるこの世の中で何とかサバイバルしてくれよ、といつも願う。気がついたら放り込まれていたこの世の中で「サバイブすること」こそがとりあえず最初に大切で、「善く生きる」のはサバイブしてかなり余裕が出てからでいい、と僕はあえて言い切ってしまおうといつも思っている。

皆が地を這っていた頃にはそれでもよかった。しかし天上人が過半を占める世界においては、もはや順序は逆なのかも知れない。もちろんあえて地を這う、すなわち「サバイブする」という選択肢だってあるが、そもそもそれが選択肢になっているところに、天上人の苦悩がある。地上人にとっては、それは選択肢ですらないのだから。

しかも,現代では「高速道路の出口問題」がある。たとえ地上の人であっても、天国ICまではあっという魔に着く。しかし出口は見えない。「渋滞XXkm」という表示もない。

「巧く生きる術を身につけた後に、善く生きる術を考える」というのは、きわめて「こちら的」にして「人生ゲーム1.0的」な考えなのだ。今の先進国に産まれる者達は、「人生ゲーム1.0」のゴールが出発点となっているのだから。

よって私はそんな人生ゲーム2.0を強いられる諸君には、むしろ善く生きるを先に考えてもらいたいと思わぬでもない。善く生きるというのは、いわばどのインターチェンジから出るかを決めることだ。一端決めてしまえば、あとは高速道路があるのだからあっという魔にそこに行ける。ただし道路情報はない。そのインターチェンジが渋滞しているかどうか、そして出口の先に何が待っているかは走った者しかしらない。いや、走った者すら、現況はわからない。彼らが走り抜けた時と現在の道路状況が同じである保証はないのだ。

困った事に、善く生きるを知るためには、悪く生きるがどういう事かも知らなければならない。マキャベリも言ったように、天国へのショーテストカットは、地獄を熟知することなのだから。

しかしはじめから天国に生まれ落ちた人々は、どこを目指せばいいのだろうか?

Dan the Survivor