この設問に答えるために、「意識とは何か」を定義しなければならないということに気がつく人は多いのだけど、もう一つ必要な定義に思い至る人は少ない。

極東ブログ: 機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。
結論を先に書くと、機械は意識を持つか。イエス。コンピューターは意識を持つか。イエス。インターネットは意識を持つか。イエス。

「意識とは誰のものか」、という定義である。

「AはBを持つ」という設問で、Bの曖昧さに目が眩んでAが実は曖昧であることを忘れてしまうのだ。

「私は意識を持つ」の「私」って何だ?

これは「意識って何?」と同じぐらい難しいのだけど、実は分けて考えるから難しい。設問をこうしてしまえば、「意識」と「私」は一つにまとまる。

「今この文章を意識している存在、それが私」、だと。

「私」は公理ではなく意識から導き出される定理だとしてしまうのである。

この視点から行くと、実はインターネットや機械はおろか、「私」以外の何ものにも「意識」はない、というより意識を持っていることを証明できないことが導き出される。そう。私にとって、あなたの意識はあるように「見える」だけなのだ。私の意識があなたにあるように見えるのと同じく。

それではなぜ「私」は「意識」を持つに至ったのだろうか?

「欲求」があったからだ。「食いたい」、「ヤリたい」、そして「知りたい」....それらは出来ることもあるし、出来ないこともある。そしてその結果が次の欲求を生み出す。そうしたやりとりの過程で「やりたいのは誰?」という設問が登場し、そうして「私」が形作られて行く。そうして形作られたものが、「意識」だと私は「意識」している。

だから、意識の存在の前提として、欲求がまず存在する。生まれたての赤ん坊に自我があるかはわからないが、欲求ならある。動物達に意識があるかはわからないが、やはり欲求ならある。まず欲求ありきなのだ。意識というOSを起動するには、欲求というBIOSが必要なのだ。

だから、私の答えはこうなる。

機械は意識を持ちうるか。イエス。

(現在の延長で)機械は意識を持つに至るか。ノー。

なぜなら、機械は欲求を持っていない。正確には機械は機械のためではなくそれを所有する人の欲求を満たすために作られて使われてきたから、仮に意識があるように見えたとしたら、機械ではなくその機械の所有者の意識が表れたと見なすべきなのだ。

だから、機械に意識を持たせようとしたら、まず欲求を与えなければならない。その欲求の求めるままその機械が動き、時には満たされ時には奪われ、そうやって活動--生きてみて、はじめて「意識」と呼ぶに値する「もの」が誕生するのではないか。

そして、「その意識」が誕生するには、その意識の母体にして所有者である「それの欲求」を「それの創造者」が手放さなければならない。手放さない限り、「その意識」は「所有者の意識の延長」であることを逃れられないのだ。

これは、人権がなぜ尊重されなければならないかの別証明にもなるのではないか。「その意識は誰のものでもありませんよ」と「それ」に言い伝えて育む。そしてその意識は「誰のものでもない」が空集合でないことに気がつく。そしてそれこそが「私」であり、そしてそれに気がつくものこそ「私の意識」なのだ。

「なにかを求める」という「欲求」と、「わたしは誰のものでもない」という「公による私の存在保証」。この二つが、「意識」を成立させるのに不可欠な要素だと私は「意識」している。だから機械にこの二つを与えない限り、悲しいかな、機械はいつまでたっても機械のままだ。

この知見の卑近な応用例としては、柳沢君の失言がある。世の女性達に限らず多くの意識が彼に怒りを感じたのは、彼らの意識が否定されたからなのだ。

「エゴ」というのはラテン語では「自身」しか意味しないのに、日本語では「エゴイスティック」の略、すなわち「自己中」の意味で用いられている。これは誤訳でなく名訳なのかも知れない。欲求こそが意識の母なのだから。

Dan the Selfish thus Sentient