これを読んで、私は落としてしまった目の鱗を拾い集めて元に戻したくなってしまった。

活字中毒R。より孫引き
『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史著・大和書房)より
その先輩は、「考えてないじゃん、悩んでるんだろう」と言いました。

なぜなら、私にとって悩みこそが考えの母だからだ。

僕が、悩むことと考えることの違いを聞いて、目からウロコが100枚くらい落ちたのは、有効な時間の使い方を発見したからです。悩むとあっという間に時間が過ぎます。そして、何も生まれていません。

「悩んでいた自分」を発見できるではないか。

そして私にとって「考える」というのは、それを見つけることなのだ。

「悩」という字を見てみよう。「脳」のにくづきをこころに置き換えた形をしているのだ。「脳」という肉に収まった心、それが悩みだ。だから「悩みは何も生まない」という台詞には、生きることそのものを否定されているような強い嫌悪感を感じずにはいられない。

悩みというのは、思考のループなのだと思う。確かに同じ所をぐるぐる回るだけでは、そこから何かを得ているという実感は得にくい。しかし一周してみてそれが初めてループだったと気がつくのもまた事実だし、ただのループだと思っていたものが実はらせんで、一周したら一段上に昇っていたということもよくあるのだ。

私にとって、考えるということは「悩み切る」ということだ。ループを一周してみて、それがどんなループだったかを記憶に「封じる」ことだ。悩むのは時間の無駄ではない。考えを得るのに支払わなければならない必要経費なのだ。

もちろん、必要経費である以上、必要以上にそれを払うのはもったいない話だと思うし、必要以上に経費を払い続けている人を見るとこちらも悩ましくなる。しかし悩みなしに考えを得られるというのは、「反社会学講座」でいうところの「スーペー」という奴だろう。私はそういったスーペーさんたちの話は、とりあえず話半分にしておいて自分で「くよくよ」してみるか、「くよくよ」した人の話に耳を傾けることにしている。

上記の会話だって、鴻上尚史がその時「悩んで」いたからこそ、先輩が助け舟を出してくれたのではないか。だとしたら、その時の鴻上尚史の「悩み」というのは、先輩の助言を引き出すという立派な効用があったのである。それを「無用」と切り捨てるのは、ずいぶんと自分の人生に対して失礼なのではないか。

たしかに寝ても覚めても悩んでいられるほど人生は長くないのかもしれない。しかし悩みを不要と切り捨てるほど、人生は短くもつまらなくもないものではないはずだ。

悩みを極度に嫌悪する人々は、目からうろこが落ちたとのではなく目そのものを落としているよう見えてならない。

Dan the Thinker