なぜあなたは論争に勝って決議に負けるのか?

なぜあなたは相手を論破できるのに説得できないのか?

なぜあなたの正論は相手の詭弁の前に破れるのか?

答えは、本書の中にある。

本書は「論より詭弁」は、修辞学(rhetoric)のプロフェッショナル、すなわち論述の玄人が、論述がなぜ無力かを説いた本である。

目次
  • 序章 論理的思考批判
  • 第一章 言葉で何かを表現することは詭弁である
  • 第二章 正しい根拠が多すぎてはいけない
  • 第三章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと
  • 第四章 人と論とは別ではない
  • 第五章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない
  • あとがきにかえて - Sein を知らないドイツ語教師 -
  • 【引用文献】

なぜ議論に勝つ人々は、往々にして支持や賛同や決議を逃すのか?

その一番の理由は、「対当な議論というのはほとんどありえない」からだ、ということになる。

p.14
だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。

実は同様のことを、私も本blogで何度も書いている。

404 Blog Not Found:ローマから対話が見える を編集
[〈対話〉のない社会の議論チェックリストおよび→私のつっこみ]
  1. あくまでも一対一の関係であること。
    → 聴衆を見方につけても構わない。
  2. 人間関係が完全に対等であること。〈対話〉が言葉以外の事柄(例えば脅迫や身分の差など)によって縛られないこと。
    → 人間関係の不均衡はむしろ積極的に利用する。
  3. 「右翼」だからだとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人としてみること。
    → それが対決に有利であれば、レッテルは積極的に利用する。
  4. 相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。
    → 言葉以外のものを背後に控えさせても構わない。兵や金や権威にものをいわせるのもあり。
  5. 自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。
    → ここは共通。ただし「対決」に有利な場合に限り。
  6. いかなる相手の質問も禁じてはならないこと。
    → 質問そのものを禁じる必要はないが、質問に対する応酬を暗に臭わせ、不利な質問に対する「抑止力」とするのは構わない。
  7. いかなる相手の質問にたいしても答えようと努力すること。
    → 無視が「対決」にとって不利にならないのであれば、無視しても構わない。
  8. 相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、寧ろ相手との対立を積極的にみつけてゆこうとすること。
  9. → 「対決軸」そのものの解消が問題解決をもたらすのであれば、対立を避ける事を厭わず。
  10. 相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
    → 小異を捨て大同を得るのもまたよし。
  11. 社会通念や常識に収まることを避け、常に新しい了解へと向かってゆくこと。
    → 実践を円滑に行うために、あえて言動が社会通念や常識に収まるように見えるようにする工夫もまたよし。
  12. 自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
    → この部分は共通である。ただしあくまでも相手の意見の変化が有利となる場合に限り。
  13. それぞれの〈対話〉は独立であり、以前の〈対話〉でコンナことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観を棄てること。
    → 自分が先入観を持つのは禁物だが、相手の先入観はむしろ積極的に利用して構わない。

そうなのだ。実際にものごとを話し合って何かを決める際に重要となるのは、「正しい意見」ではなく「強い意見」なのだ。そして意見の強さというのは、正しい議論が最も忌み嫌う要素によって成り立っているのだ。「論の正しさも」一応「意見力」の要素の一つではあるのだが、あくまで要素の一つ、それも後ろから数えた方が早い程度の強さでしかないのだ。しかもこの力は往々にして意見力を弱める方にすら働くのだ。

そのことを指摘すると、往々にして「正論派」は、「間違っているのは世の中の方だ」という。なんと正しく空しい指摘だろう。正論を通すのは、論の正しさではなく、論者の強さなのである。

もちろん、自らの立場をいいことに、強くても誤った意見ばかりを押し通し続ければ、それは自らの力を弱めることにつながる。馬鹿を強いた趙高はやっぱりバカだったのだ。必要もないのに正論を力でねじふせるのは、力のムダ遣いもいいところなのだから。

しかしそれでも、正論は「意見力」のトップとはなりえない。論達者はどうしてもこのことがわからないようだ。彼ら(いや、私も含めて)の正論が往々にして負け犬の遠吠えにしか聞こえないことを、論者たちはもっと自覚すべきだ。

論の玄人がそういっているのだから間違いない。もっとも左の論法は属人論法という最も代表的な詭弁ではあるのだけど。

正論ゆえに負けた事がある人、必読の一冊。

Dan the Hypocrite