同感。

赤の女王とお茶を - 「科学としての経済学」のトリセツ
問題なのは、経済学の議論になるとなぜかモデルと現実を一緒くたに語ろうとする人が多いということ。

というより、なぜ経済学好きたちは、経済学が「ためになる」ことにこれほど執着するのだろうか。

赤の女王とお茶を - 「科学としての経済学」のトリセツ
そしてそういったモデルについて精緻化した後に、やっと現実世界への適用が始まる。

そして、実はそこまで行っている「学」、すなわち「foo科学」に対して「foo工学」まで持っている科学は実は一部。数学なんかその典型的な例だし、天文学もそう。物理だって、超ひも理論がいつ現実の役にたつかはわからない。どころかもう実験装置を作ることもままならない。

科学の大部分は、「いつかは役に立つかも知れない」けど、とりあえずは「面白いから」やっているのではないか。もちろん科学が役に立つに超した事はないし、「工学化」しやすい科学もあるし、実際どの時代を見ても一番好事家、失礼、研究者たちを引きつけるのは、工学化が現在進行形の科学分野なのだけど、基本的には、科学の動機は「ためになる」ではなく「面白い」のはず。

科学の価値は、面白い事そのものにある。

これで充分なのではないだろうか。

そのうちのごく一部でも「役に立ってくれれ」ば、充分元は取れるのである。そして何が役に立つのかわからないことは、科学の面白さの中で一番おいしい部分ではないか。個人的になんで数学(数学が科学かメタ科学かはさておき)が一番面白いかというと、この意外性が一番大きいから。どう大きいかは物理と数学の不思議な関係をお読みいただくとして、この事情はどの科学も変わらないと思う。

経済学は、面白い。なにしろ扱う対象が人だ。対象が自分たち自身である以上、これが面白くないわけがない。しかし、それは経済学を役に立ち難くしている一番の理由でもある。科学というのは現実というブラックボックス=函数の中身がどうなっているのかを調べることだが、ところが人は自己書き換え函数なのだ。函数を調べる行為そのものが函数を書き換えてしまうのだ。ガス中の分子のように大人しく観察される対象ではないのだ、我々は。

だからこそ面白いのだし、ゆえに経済学には充分な価値がある。

まずはそこで満足すべきではないのか?

そもそも、経済学者たちに「役に立つ」を受け入れるだけの余地があるのだろうか?「役に立つ」を受け入れるというのは、「役に立たなかった」場合の責任を取らされるということでもある。「工学化」が進んだ科学分野はそうなっている。工学者は科学者より儲かるが、負わされる責任もまた大きいのだ。

経済学は、そこまで「使えるもの」になっているのだろうか?

そうでなければ、「面白い」でとりあえず満足しておくべきではないのだろうか?

Dan the Economic Animal too Scared to Apply Economics