二重にひどい事件に、二重にひどい反応。

ZAKZAK
兵庫県尼崎市の市立小学校で昨年11月、4年の女子児童=当時(10)=が同学年の男子児童=同=に呼び出され、男児宅で性的暴行を受けていたことが27日、分かった。男児はアダルト映像に触発され、「同じことをやってみたかった」と話しているという。

事件として二重にひどいのは、事件そのものもさることながら、それを「アダルト映像」というファンタジーのせいにしていること。

反応として二重にひどく、しかし想定の範囲内なのは、「だからAVを規制しろ」という声が早くもネットで上がっていること。「ゲーム脳」に対して批判的なはてブさえ、この基調。

はっきり言おう。これに限らず、リアルで起きた事件に対して、「○●というファンタジーに触発されて」という言い訳を鵜呑みにしてそのファンタジーを規制するのは、大人社会の放棄であると。

極論してしまえば、リアルとファンタジーを峻別できる人というのは、大人の定義そのものである。少なくともこれが大人としての必要条件であり、そして最初に課せられる必要条件だ。

実際、いづれの国においても、未成年に対する刑事罰が規定されているのは、未成年でもリアルにおいてやってはいけないことがわかる、すなわち上記の「必要条件」が満たされているということが前提となっているからだ。

佐々木知子のホームページ
人は発達段階において「是非弁別能力」(やっていいことと悪いことを区別し、その判断に従って行動できる能力)を身につけていきます。それが何歳かは人によって違うのが当然ですが、いちいち個別に判断していては大変です。ですからどの国もある年齢を一律に刑事責任年齢と定めているのです。
ちなみにフランス13歳。イギリス10歳。アメリカは州によって違います。14歳より高い国はヨーロッパにはいくつかあり、驚くべきことには中南米の多くの国もそうでした。

このとおり、イギリスであれば本事件の加害者はすべて刑事罰の対象だ。

理念としても、ファンタジーに触発されたリアル事件において、ファンタジーは免責されるべきだと私は信じているが、実地においても、今や必要とされるのはファンタジーを「人畜無害」に保つことではなく、ますますリアリティーを増すファンタジーに対する免疫の方である。テレビどころか紙すらなかった頃に「果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」と言い切るにはよほどの(想像|妄想)力が必要であるが、今や我々はリアルと見間違うほどのファンタジーに囲まれて暮らしている。ファンタジーの発信者に対して規制をかけるのは、一世紀ほど遅すぎる。

現時点においては、ファンタジーの種類に応じて規制を変えるというずいぶんと生暖かい対応を各国とも取っている。日本はそのうちでもかなり規制者側に甘い方であるが、ゼロ規制というのは国の内外を問わずまだない。とはいうものの長期的なトレンドとして、発信者規制はゆるくなり、その分受信者の分別が強く求められるようになってきるのは確かだ。私はこのトレンドを「社会の大人化」と呼んでいる。言論を自由に出来なかったのは、社会がまだ大人でなかったと見るのである。

まだ達成できていないとはいえ、少なくとも憲法のような最高法規に「言論の自由」が謳われるまで社会を大人化するのにどれほどの血を人類社会が流してきたかを考えれば、こうした事件をもって表現に規制を受け入れるのは、「ガキのごね得」を認めるに等しいことだと考える。そして、大人には不快なファンタジーに耐え、反社会的なファンタジーを現実に適用しない義務があるのだ。

ファンタジーに触発されて犯罪に走るのは、子供の専売特許ではないし、我々の社会はその「いいわけ」を認めない。私見ではあるが、ある事件に対して加害者がファンタジーをダシにしたら、罪を重可算するべきではないのだろうか。

もちろん、どんなファンタジーがどれだけ現実でも適用可能かというのは、場所によっても時代によっても違う。それを見極めるのはトリビアルな作業では決してない。大人でもその見極めに失敗することはある。しかしその場合でも責任を負うのが、大人というものである。

絵空事のせいにできるのは、せいぜい9歳までと心得るべし。

Dan the Grown-up